第十九話 / 彼の要求


 文化祭以来、浅倉とは図書室でよく会うようになった。特に何があるというわけでもなく、向かい合って勉強をして、ときどき分からないところを聞きあったりした。
 遅くなったときには送っていき、ときどきキスをした。
 浅倉はいつだって拒まなかった。
 そして求めなかった。何ひとつ――物も、時間も、約束も。
 浅倉は何も言わなかったけれど、例の彼氏と別れたという話も口にしないところを見ると、今でも付き合い続けているのだろうと分かった。でも、別れてほしいと言うのはなんとなく気がひけたし、浅倉の気持ちには何の確信ももてなかった。
 卑怯だ、と思っても口に出せない。たぶん浅倉は、何の悪気もなく行動を選択している。抱えている苦しみも分からないではないし、むしろ、そうでなければ滑りこむ余地なんてひとつもなかっただろうから、感謝すべきことなのかもしれない。
 利用されているとか、もっと明確だったら良かったのに。
 浅倉に好かれているのは、自惚れではないと分かる。それが友情なのか恋愛感情なのかは分からない。曖昧な「好き」を言葉にもせずに、態度だけに表して。俺はそれに繋がれている。
 何もかもが中途半端で、だからこそ恨みきれずにいた。

 加賀谷や京平には言えなかった。というか、誰にも言えなかった、こんなこと。
 けれど、それ以前に気付かれてしまったのが、滝本でよかったと言うべきなのかよく分からないでいた。

「気付くつもりはなかったんだけど」

 そう前置きしておきながら、滝本はほとんど無表情に言った。
 だいぶ冷えてきていたから、帰り道の途中、自販機で暖かいコーヒーを買って階段に座っていた。話があると、滝本が言ったのだ。

「うちの弓道部の女の子の後輩が、阿部に一目ぼれしたんだってさ。『好きな人いるんですかね?』って言ってたから『彼女は居ないって言ってたけど?』って言っておいたんだけど」
「――で?」
「後で、その子に責められたんだよ。『先輩の嘘つき! 阿部先輩、彼女居るじゃないですか!』って。俺はそんなこと知らないから答えようなんてないんだけど、図書室でいつも仲良くしてる人が居るって聞いたら、意図せずとも図書室を使うときに気にして当然だろ?」
「……まさか滝本がそんな加賀谷みたいな真似するとは思わなかった」
「俺はそこまで野次馬根性ないよ。図書室に行ったのは、そこで他の奴に物理の課題を聞く約束してたからだし、阿部が目に入って、で、見知った女子と居るの見たら、そう思うのは必然的」

 まったく飄々という言葉が似合う態度で、滝本はすらすらと悪びれなく喋った。
 図書室みたいな公共の場所に二人で居たことはまずかったとは思うが、ほとんど会話も交わさずに黙々と各々の勉強に取り組むことが常だったから、そういう見方をされるとは思わなかった。そんなこちらの心中を読み取ったかのように、

「もし俺がその光景だけ見たら、偶然相席してんのかな、としか思わなかっただろうけど。恋する女の子はすごいね」
「……滝本、お前、んなどうでもいいって顔してそういうこと言うなよ」

 そう言うと、滝本は肩をすくめた。
 受験勉強も厳しくなってきている。滝本はもう引退したはずの弓道部に、ストレス解消がてら時おり顔を出して射っていくらしい。温和そうに見える滝本でも、やっぱりストレスは溜まるらしい。特に、後輩ののん気な会話なんかに対して。
 となると、今の自分は滝本にとって憎むべき存在になっているような気もする。

「でも、浅倉さんには年上の彼氏が居るって話、聞いた気がするんだけど?」

 どうして知らせる必要性の無い話をいちいち伝えてきたのかと邪推していれば、主な用件はそこらしい。
 その目に見えたのは怪訝そうな不安だった。

「……らしいよ」
「じゃあなんで阿部と付き合ってるんだよ」
「っつか、俺ら、別に付き合ってるわけじゃないし……ちょっと複雑な事情なんだよ。悪いけど、浅倉のプライバシーがけっこう入るから、滝本でも話せないけど」
「ふーん」

 つまらなさげに、興味ぶかげに吐かれたため息の意味はよく分からなかった。
 たぶん、滝本は誰にも喋らないだろうし、からかいもしないと思う。真剣に話せば真剣に応えてくれるタイプの人間だと知っていた。だから何かを話すのが怖かった。
 気付いたら同じ所をぐるぐると廻っていて、俺ら二人ではずっとこのままかもしれない。

 滝本はこちらの表情を眺めていた。

「……なんか、ずいぶん阿部らしくないけどな」
「は? 何が?」
「そういう風にぐずぐずしてんのって、阿部らしくないって思ったんだよ」

 俺らしいって、何だそれ。
 一瞬、滝本にたとえようのない苛立ちを感じたけれど、持ち前の自制心で留まっていた。分かっているから。自分がはっきりした人間だと思われているということも。
 何より、この今の優柔不断さを誰よりも憎んでいたから。

「……なあ」
「ん?」
「滝本はさ、本気で好きになった奴とかいんの?」

 想像していなかったらしい質問に、滝本は眉をひそめる。どこかでよく見る表情だと思えば、そうだ、加賀谷だ。

「どこからどこが『本気』って呼ぶのかは知らないけど、まあ、好きになったことぐらいあるよ」
「そっか」

 その次の言葉を発そうとする前に、滝本はなめらかに言葉を続けた。

「阿部、俺の意見なんて参考にならないから、変な質問すんなよ」
「――先に言うなよ」
「たぶん、俺は阿部と同じような状況どころか、これっぽっちも似たような思いなんてしたことがないから、当てずっぽうは言えないだろ?」
「したことないって、やけに断定的だな」
「そりゃそうだよ。……俺、浅倉の彼氏、知ってるし」

 かろうじて皮膚の上に張り付いていた表情筋の一部が、ぼろぼろと零れていくような。いや、一瞬だけその存在を忘れてしまったような。
 ただ、自分がどんな表情をしているのかも分からなくて。

「菊名先輩って言って、同じ中学の先輩。俺、中学ん時は美術部入ってたから知ってんだ。進学先に悩んでるときにここの学校に来いよって誘ってくれたのもその先輩だし」
「――何だよそれ! 滝本! お前全部知っててそういうこと言うのか!?」
「……んなこと知りたくて……なんで、友達や先輩の泥沼なんて知りたくて言うかよ、こんなこと」

 空回った怒鳴り声。
 もう辺りは夕暮れが始まっていて、無為なほどによく響いた。
 握り締めたコーヒーの缶がぬるくて。

「阿部も、菊名先輩も、浅倉のこと大事なのかもしれないけど、俺からしたらむかつく。俺には浅倉が何を大事にしてんのか全然分かんねーよ」
「……俺にだって分かるかよ」

 憶測でものを言うなら、浅倉は、何も大事にしていないように見えた。
 浅倉は俺に優しくする。その菊名先輩とかいう人にも。でも、優しくするということと大事にするということは違うんだと、浅倉と関わるようになってから思うようになった。ただそこに居て、優しくするべきだから優しくされているような気がする。

『あのね、ありがとう』

 彼女の言葉は分かりやすいのに。
 嘘じゃないのに。

 でも、滝本の言葉は、うまく否定できないでいた。滝本が浅倉に対して苛立つのを、ほっとしたみたいな気分で聞いていた。
 たぶん、俺らの関係は長くは続けられない。浅倉が俺を選ぶか、菊名先輩を選ぶか、それとも両方と離れるか、いつしか選ばなくちゃいけない日がくる。浅倉はどちらを、何を選ぶか分からなくて、まだ何もはっきりさせようとせずにいた。俺は、その曖昧さが怖くて、何も聞けずにいた。
 滝本はそれを責めている。そして、この中で一番正しいのが滝本だという事実に、うまく言えないけれどどこか救われていた。

「聞けばいいだろ、浅倉に」
「…………」
「阿部」
「……簡単に言うなよ」

 静かに黙った滝本の表情を伺えば、冷たくて無機質な怒りがそこにあった。
 いたたまれなさから、ポケットに手を突っ込んで、その中にある携帯電話に触れた。ただ無性に、浅倉に会いたくなった。
 浅倉に会うたびに、話し合うべき話を忘れて、逃げ回って、幸せでいられた。
 もう少しだけ。
 だけど同じぐらい、この中途半端で曖昧な状況に憤りを感じていた。望みは、どこまでも矛盾していた。

「――もし、このまま阿部がずるずる続けていく気なら、俺が介入するかもしれないからな」

 そう言って、滝本はすっと立ち上がった。
 夕焼けを越えて薄暗くなりはじめた空の、その逆光の中で、冷たい冷たい滝本の表情が垣間見える。失望だとか、決意だとか、その表情をあらわす正しい言葉なんてどこにもなかった。
 引き留めようと、立ち上がろうとした足が止まった。言葉が、ただ足りなかった。自分と彼女の曖昧さと卑怯さを知っていたから、正しい滝本の説得なんてできないと分かっていた。

 滝本、滝本、滝本。
 名前だけが、ぐるり、ぐるりと。背中が、早くしないと溶けて見えなくなってしまう。口の中がざらざらと乾いていた。
 呼び止めることもできずに、ポケットに突っ込んだままの手を出した。きちんと折りたたまれた携帯がそこにある。

 探したのは滝本の名前なんかじゃなくて、浅倉の名前だった。
 どうしよう、分かっているんだ、今の俺も浅倉も卑怯だってことぐらい。でも、浅倉が放った「助けて」の一言はどうしようもなく真実で、俺は浅倉が好きだった。知られたくないようなプライバシーまで覗き込んで束縛しようとする男のそばに浅倉を置きたくなかった。
 頼ってもらえるなら、友達でも相談相手でもいい。そう思えたなら事態は簡単だったのに。
 好きになった。開いていた文庫本の作者だとか、きっかけはもうどうでもよくて、何も説明できないぐらい、ただ「浅倉」という存在そのものがその感情の向かう全てになった。様々な場所から発生した感情やものごとは、ありとあらゆるルートを通って彼女に帰結する。
 好きになってしまった。
 理由や原因が必要なら、誰でもいいから作ってほしい。現実は何も変わらないのだから。

 明度を落とした画面の中から、浅倉を選んだ。
 コール音が響き始めると、携帯を持つてのひらが一気に湿って気持ちが悪いぐらいだった。

 ぷつ、と音が途切れて、静かになる。そしてすぐに、聞き覚えのあるアナウンスが流れてきた。留守番センター。
 けれど、諦めてフリップを閉じて一分も経たないうちに、コール音が鳴り始めた。浅倉だ。

「もしもし」
『……もしもし? 阿部君?』

 声を聞くだけでスイッチがすべて切り替わってしまうのに。

「ん、悪い、かけ直させて。今どこ?」
『今、学校。図書室で勉強してたの。阿部君は? 今日は来なかったね』
「あー、ちょっと用事があって。あのさ、今日会えないか?」
『今日? 今すぐに?』
「そこまで無理は言わないけど……まあ、2時間ぐらいなら待つかな」
『え、阿部君は学校じゃないの? 家に帰っちゃった?』
「違う。学校出て左に曲がったら、しばらく行くと公園あるの知ってるだろ? あそこ」
『うそ、外? ちょっと待って、すぐに片付けて行くから』

 空が秒刻みで薄暗くなるのがはっきりと分かる。
 浅倉の声に混じって、誰かの話し声が聞こえた。俺らの日常の音。

「あ、やっぱ寒いから来なくていいよ。そんなに時間かかる話でもないし、このまま聞いてくれよ」
『だって、阿部君も寒くないの? 私、もうすぐ帰る予定だったからいいよ。すぐに行くよ』
「じゃなくてさ、」

 顔を見たら、うまく話せるかどうか分からなくなってしまいそうだから。心臓が鳴るのが早い。でも声が震えてしまわないように、落ち着いて話そうとした。
 緊張。決勝戦で格上の選手に当たったときみたいな。あの緑色のコート。

「浅倉はさ、俺をどうしたいわけ?」
『……え?』
「俺、考えたんだけど、やっぱ俺は浅倉が好きで、このまま浅倉のこと支えてやりたいけど、無理だ。辛い」
『――――』
「頼むからさ、浅倉が俺をどうしたいのか言ってくれよ。期待したくてもしきれないし、こういうの、残酷だ。俺を選んでくれんのか、それとも今の彼氏と続けんのか、ちょっとは待つからさ、考えてくれよ」

 電波の向こうでは沈黙が広がっていた。
 空が暗くなる。
 早く、早く。

『――阿部君は、私と居るの、辛くなったの?』
「……たぶんな」

 それからたっぷり60秒以上待って、浅倉は『分かった』と絶えそうな声で言った。
 俺は「じゃあ」とも言えずに電源ボタンを押した。
 外は寒くて、冷たくなったコーヒー缶がそこにあって、街灯が光っているのが体の内側にしみる。浅倉の暖かさを抱きしめたくなってきつく目を閉じたら、ちかちかした闇しか見えなかった。


2006/12/27
飴村