第一話 / ライフライン


 都築めぐみ。十七歳。
 今しがた、失恋記録をまた更新した。

 私をフったのは、D組のテニス部の鳴海諒。見た目は中の上。特別頭がいいとは聞かない。
 その他詳しいプロフィールは知らない。誕生日がいつだとか、趣味がなんだとか。兄弟はいるのか、ホワイトデーに律儀にお返しするタイプかとか。

 ごめん、と目を逸らしながら謝る鳴海を見ていたら、なんだかそんなことを思い出した。そういえば、私はこいつについて何も知らない、と。

「都築の気持ちは嬉しいけど……その、ごめん」

 当然、呼び出したのは私のほうだ。
 放課後の体育館の裏。人目につきにくいところ。
 校舎の陰になっているけれども、そこには大きな欅の木が一本立っていて、夏にはいい具合に影が出来て。部活のあとは、決まってそこでしばらく過ごしていた。
 夏も終わって、秋の初め。緑の色に元気がないような気がする。
 風がふけばざわざわと揺れるけれども、何処か寂しそうで。それもそうだろう。あと一月もすれば、きっとゆっくりと散っていくしか、道は残されていないのだから。

 何で、夏が終ると元気がなくなるのだろう。
 賑やかな夏休が、元気を全部持っていってしまったように感じるからだろうか。

 残暑という言葉があるように、暑さばかりが、新学期の教室には確実に残っていて。

 夕暮れの速度が速まって、朝の通学路が涼しくなって。途端に寂しくなる。
 何かが急に、終わりに向かって走り出すような感覚。

「……都築?」

 面白い映画を見ているときのような感覚。
 ふと時計に目をやって、ああ、残り三十分だってわかったときみたいに。

「え、あ、うん」
「……だから、ごめん、な」

 途端に、クライマックスの終わりが見えてしまうような感覚。
 あ、来ちゃったって。

 楽しみにしてたドラマの合間、ふと見上げた時計の長針が49分を指しているような。

 展開が急ぐような。
 焦り。

 もう終わっちゃうの。はやいよ、って感じ。

「……ううん、」

 急がなくちゃ。急がなくちゃ。おいていかれてしまう。けれども、何に?

「フっておいて、こんなこと訊くのも、アレだけどさ……都築」
「何?」
「……どうして、俺なんだ?」

 逸らされてた目が、はっきりと私を捉えた。予想以上に色素の薄い茶色の目。あ、睫も結構茶色っぽい。
 そうか、鳴海は染めてたんじゃなくて、それは地毛だったんだ。確かにそれっぽい色だったけど。今の世の中、何でも可能だから。

 あいつの目も髪の毛も、びっくりするくらい真っ黒だから。鳴海のソレは、新鮮に見えた。

「……鳴海くん、一応、恋心は理屈じゃないっていうルール、知らない?」
「でも、やっぱり惚れるには理由があるだろ?」

 失敗したと思った。
 もうちょっと、面倒くさくないのにすればよかったって。

「……テニス、してるでしょう? 鳴海くん」
「うん」
「時間がかぶったりすると、休憩のときとかに、偶に見えるの。あ、格好いいなーって思って」

 同じラケットをもつのでも、バドミントンは体育館の中でする競技で。
 休憩中、体育館の開け放たれた扉のコンクリートの階段に腰掛けて、ポカリを呑んでたら、テニスコートが見えた。
 鳴海をきちんと認識したのは、多分その日が初めてだったと思う。

 あんな重いラケットと羽……じゃなかった、ボールで、よくプレーできるなぁとか、見当違いなことを思ったりしたわけで。

 誰かに呼ばれたらしく、フェンス脇に走っていって、笑顔で話しているのが見えて。その相手が、あいつだったから。

「……そっか」
「そうです」

 どうかしているんじゃないだろうか、鳴海は。
 いや、よく知らないけれども。

 ほんのちょっと前にフったいたいけな少女に対して、どうして自分なのかって?

 十七歳の乙女は、そんなに強いものじゃないのに。本当なら、ごめんて言われた瞬間に、涙してもいいのに。
 馬鹿じゃないの。
 やっぱ鳴海じゃなくて、いつも鳴海と一緒にいる、ええと…なんだっけ、高橋じゃなくて……高……高倉、そう。あっちにすればよかったかもしれない。

「普通、女子はこういうこと訊くと、泣くよな」
「……は?」
「でさ、次の日とかに自称親友とかがやってきて、どうしてそう無神経なんだって、正義ぶって言うんだよ」

 鳴海は古びた体育館の壁に寄りかかって、やり場に困ったような右手で頭を掻いた。都築は違うのな、とそう続けた。

 カチ、と針の動く音がしたような気がした。
 クライマックスだよ。放送時間はあと15分。CMを挟んで、最後10分弱。今週はもう、ここで終わりだよ。

「……実際、鳴海くんは無神経だよ」
「そう? でも都築は泣かないじゃん」
「涙流すことだけが傷ついてるってことじゃないでしょ。馬鹿じゃないの」
「馬鹿って……おまえ、俺のことさっき好きっつって告ってきたくせに」
「鳴海くんがフったんじゃん」
「そーだけど……おまえ、どうして俺がおまえの名前知ってるのかとか、不思議に思わないのかよ」
「思ったよ! 恋する乙女だもん。脈有かな、とか!」

 言葉を投げつければ投げつけるたびに、やっぱり高倉のほうを選んでればよかったと後悔が募る。
 大体フった女にいつまでもしつこいんだ。
 興味がないから、それで終わりってのが普通なのに。

 それとも。

「それとも何、実は私のことが好きだった?」
「そういうふうには見れないってさっき言ったじゃないか!」

 なんだか、奥の深いところが、ちょっぴり痛んだ気がした。
 何も、もう一度言わなくたっていいじゃない。
 いくら私でも、痛まないわけないじゃない。

「僅か五分の間に二回もフらないでよ!」
「おまえがそうさせてんだよ!」

 わかった。

 私は、鳴海諒というこの男子について、ほとんどと言っていいほど何も知らないけれども。
 ただ、あいつと仲良さ気に喋っているのを数回目にしたから、利用してやろうと思っただけだけれども。

「前言撤回。私、あなたのこと、好きでもなんでもない」

 どうでもいいなんてもんじゃない。

 嫌いだ。大嫌いだ。
 やっぱり失敗した。高倉に告ってればよかった。
 どうして面倒なこいつを選んでしまったんだろう。もう少し知ってからにすればよかった。
 ……よかった?

 どうせただ利用するためだけだったのに?

 だったら、知ることなんて、無意味だ。

「だから忘れて。なかったことにして」

 兎に角はっきりしているのは、私が致命的なミスをしたということ。鳴海には近づくべきではなかった。利用しようとさえ思わなければ、きっと互いを知ることなく卒業出来ただろうに。
 一つのミスで、あとは転がり落ちるしかなくなる。

 あいつの声が聞きたくて堪らない。今すぐにでも。

 なのにどうして、私の目の前にいるのは鳴海なんだろう。茶色の髪。細い睫。整った顔。引き締まった唇に太い首。学生服の下には、白いアイロンのかかったシャツが見えて、首元にレザーの紐が見える。あの先には何があるんだろう。
 こんなものに興味はない。
 けれども、一緒にいるのを見てしまったから。気がついたらこうして呼び出していて。

 「馬鹿じゃないの」? 馬鹿は私だ。

 嫌だ。逃げたい。こいつの顔を見ていたくない。

「何だよそれ。勝手に人ん中に足跡つけて、それでなかったことにしろって。本来なら、俺は今頃部活で汗を流してるはずなのに」
「なら部活に行けばいいじゃない。呼び止めたのは私だけど引き伸ばしてるのは鳴海くんでしょ」

 鳴海の顔が不愉快そうに歪められた。ああ、何処か一定の領域に、踏み込んだんだなと、感じた。

「おまえが、男とっかえひっかえしてるって、うちの学年で知らない奴はいねーよ、都築」
「そう、そのうちの一人にならなくてよかったね」

 早く早く。
 おいていくよ。

 急き立てられるような感覚。追い詰められるソレに似ている。

 お客さん、乗らないんですか?

 そう問われると、乗らなきゃならない気がして。行かなきゃならない気がして。でもどうすればいいのかわからない。両足はホームに縫い付けられているかのように動かなくて。
 心ばかりは走りたがる。
 目的地もありはしないのに。

 鳴海の視線を振り切るようにして、体育館裏から走り去る。
 夕暮れの三歩手前の太陽が暑い。まだ夏の匂い。なのに欅の木の葉を揺らす風は、もう夏は終ったのだと告げる。

 時間がない。終わってしまう。けれども何が? わからないのにどうして急ぐ。

「めぐみ?」

 呼び止める声に、針が止まる。

「何してるんだ? 部活は?」

 反射的に振り返ったそこには、いつも彼がいる。いつだって、彼が。

「――和登……!」
「今日はバド部休みなのか?」

 堪らず崩れ落ちれば、彼の暖かい掌が肩に乗せられる。
 涙は出てもいないのに、その行為がまるで、涙を止めるかのようにして、途端に楽になる。呼吸が出来る。

「腹痛いのか?」
「……んなんじゃないやぃ……」

 電車の扉は目の前で閉まって、終電は去る。
 テレビの画面は、とっくに次の番組を映していて。
 スタッフロールの流れる画面を前に、周りの人たちがぞろぞろを席を立つけれども。

「……フられた」
「またか? めぐみはいつも長続きしないな」
「……泣きたい」
「俺、今日カテキョが六時からくるから、五時半までなら付き合うよ」

 差し出された手をとれば、焦燥感は消えている。

 


2006/02/23
工藤