第二話 / 正直なうそつき


 ペアリングだとか、そんなこっ恥ずかしいものを自分がつけることになるとは思わなかった。でもさすがに、指につけるのは到底無理で、レザーの紐に通して首から提げていた。そうすれば、少なくともそれそのものは見えない。
 和登はそんな俺のことをからかって笑ったけれど、嫌な笑い方ではなかった。

「お前も所詮人の子だよな。テニス一筋のバカだと思ってたけど、」
「和登」
「で、やることはやった?」
「和登!」

 目の前で笑っている和登はたとえようもなく嬉しそうだった。
 思わずため息が出る。でもそれは仕方のないことだ。
 テニスコートから少し離れた水飲み場は、陽にさらされている。中途半端な太陽がそこにあって、中途半端な暑さがあって、それからコイツが居る。わけが分からない。

「お前がそんな奴だと思わなかった」

 俺のため息交じりの一言に、目の前の笑みは深くなった。

「何言ってんだよ。俺は友人の幸福を心から喜んでるんだ」
「そんな顔には見えないけどな」

 和登はなめらかな動作でこちらに手を伸ばすと、ひやりとした手を俺の首筋に当てた。その指先は、的確に革ひもを捕らえて、そして引っ張り出した。
 白いTシャツから零れたのは、銀色のリング。
 それを視界に捉えたときの、この嬉しそうな目が心底憎い。

「おーお、こんなもんつけて」
「悪かったな」
「だからそんなこと言ってないだろ。諒がそこまで明奈のこと大事にしてくれると、紹介したこっちとしても非常に喜ばしい」
「……明奈が何か言ったのか」
「いいや。右手の薬指に同じモンは見えたけどね」

 最悪だ。何が、とは言えないけど。ともかく、俺の身の回りを囲む全てが今はそう思えた。

「なあ、休憩時間もそんなに無いんだって。和登、お前、ちょっとは俺のこと休ませろよ」
「んー? いいんじゃねえの? どうせ夏の大会は終わったんだろ?」

 そう、確かに、夏休みは終わった。夏は静かに死につつあって、何もかもが消える秋が来る。
 そういえば、去年の秋にはやけに付き合い始める奴が増えて、それから冬に分かれる奴らが多かったことを思い出した。それ自体に特に大きな意味はない。
 ただ、やりきれない暑さはまだ続いていて、もどかしい。炎天下とは呼べないのに、蒸し暑いというわけでもないのに、じっとりとした何かが体力を吸い取ってゆく。一番ムカつく季節だ、ほんとうに。

 「そういえば」と和登は下手くそな話題転換を試みた。

「めぐみが告ってきたってマジで?」
「……知っててお前がそれを聞くのか」
「いや、ほんと、諒って俺の周りの女と縁があるよな。スゲースゲー」

 都築の場合は、ちょっと違う気がするんだけどな。
 そう言おうと思ったのに、上手く言葉にできなかった。理由はよく分からないけれど、目の前の男には何を言っても無駄な気がしたのだ。
 正直に言おう。都築は顔だけだったら好みだ。こう言うのも何だが、明奈よりも可愛い顔をしていると思う。しかしそれは外見のみの話であって、中身に関してはあまり良い噂を聞かない。
 男をとっかえひっかえ、女友達は少ない、でも先生の評判は良い、とか。
 もし和登の幼なじみでなければ、都築に関しては悪いイメージしか持たなかっただろう。けれども和登が都築のことをやけに庇うので、そこまで悪くは思っていなかった。
 そう、先日までは。

「でも、都築って無茶苦茶だな」
「ん? めぐみがどうかしたか?」
「告ってきといて、途中から逆ギレする女ってのは初めて見た」

 言うと、和登は苦く笑った。まるで子供のした失敗を柔らかく見守る親のように。
 ほら、こういう表情を和登にさせる女だと思ったから、だから俺は呼び出しに応じたのに。本当はそれだけで、明奈が何を言うか分からないにもかかわらず。
 ――いや、明奈は悲しそうに笑うだけかもしれない。ふとそう思い直した。

「めぐみは悪気ないんだよ。ただ、ちょっと、まあ、うん……」
「男癖が悪いってか?」
「それは言うなよ。でも、悪気ないのは本当だと思うけどな」

 ああ、お前はそうだろうよ。とは、やはり言葉にならなかったけれど。

 何度か、和登が都築と喋っているのを見たことがある。
 はじめは、その女が誰だか分からなかった。それが都築めぐみだと分かって、なんとなく納得もしたものだ。
 男に媚びる感じ。魂胆みえみえもいいところだ。
 それを目の前にして、和登は笑っていた。知っていて、わざとなのかどうかは分からない。それとも、最初からそういった生き物なのだと理解しているのかもしれない。
 ただ、

「和登」

 そうアイツの名前を呼んだ都築は、柄にもなく、はっきりと可愛いと思えた。それがたとえ作りものの媚であろうと、本気で和登のことを想っているがゆえのことであろうと、それだけは事実だった。
 事実だったから。だから、きっと今は、悔しいのだ。

「……幻滅ってああいうのを呼ぶんだろうな」
「なに? めぐみに何かいい夢でも見てた?」
「かもな。和登が褒めるから悪いんだろ」

 褒めてたつもりはないけれど、と彼は前置きして

「でも、俺、めぐみのことは好きだけどな」

 と、のたまった。
 何一つ悪びれようともせず、何一つ嘘は含まれない、といった顔をして。

「――お前、それ本気で言ってんの?」
「俺はいつでも本気だけど?」
「だって都築だぞ? 悪いけど、あんなにもしたたかそうな女、俺はとてもじゃないけど無理だ」
「諒はめぐみを知らないんだって。そりゃ、第一印象は悪いかもしれないけどな。実際関わってみれば可愛いモンだよ」

 ああ、お前はそうだろうよ。このセリフも二回目だ。クソ。

「でも、どうせ恋愛感情じゃないんだろ」

 そう言うと、和登はいつものように笑った。穏やかに、残酷に。
 答えは与えない。誰にだってそんな顔をする。他人がどうなろうとお前には関係ないんだろ。だから都築のことを「好き」だとか言うくせに。
 段々と腹が立ってきた。中途半端な暑さに、中途半端な和登に、途方もなくムカついた。

「……まあいいけどな。俺には関係ねえし」
「んー……まあ、めぐみのことは残念だったけど、その分明奈のこと大事にしてくれればいいし」
「そうかよ」

 思わず吐き捨てるように言ってしまった。それに気づいて、自己嫌悪から顔をしかめたけれど、和登は何の反応も示さない。
 それはそれで嫌だ、と思った。
 すると、それを見越したかのように和登は笑った。

「諒はマジで分かりやすい性格してるよな」
「うっせ」

 放っておいたら涙すら流しそうな勢いで爆笑する和登の背を、思い切り叩いてみる。奴は「痛っ」と言いながらやはり笑った。
 こういうのを何て言うんだっけ。胸糞悪い?
 どうでもよかった。ついでだからもう一発蹴ってやっても、やはり笑い声は止まなかった。

 少し離れたテニスコートから、急に声が聞こえ始める。
 ああ、練習を再開したんだろうな。早く行かなくちゃ。何を言われるか分かったモンじゃない。けれどもやけに体が重く、泥みたいにだるかった。
 疲れた?
 そんな馬鹿な。これくらいでへこたれる体をしているわけではない。
 理由を探してみたけれど、もしかしたら目の前のコイツと話したせいかもしれない、とも思えた。和登と話すのは楽だけれど、ときどき途方もなく疲れることがある。警戒のしすぎだ。ふと、何もかもを見透かしたような顔をされるのが嫌で。コイツの風下に立つのが嫌で。

「いいこと教えてやろっか?」
「何だよ」
「めぐみは、諒のことが好きだったわけじゃない」

 言って、満面の笑みを浮かべた。

「めぐみのアレは病気みたいなもんだ。あんま気にすんな」
「病気?」
「なんでか、めぐみは長続きしないんだ。不思議なことに」

 それが不思議だって? 冗談じゃない。
 でも、口を突く言葉はいつだって違うんだ。

「……確かに、不思議かもな」

 早くここから逃げ出したかった。
 お前らなんて知らない。都築は都築で、和登に媚でも何でも売ればいい。和登は、知っていようが知っていまいが、都築を許すなら勝手にしろ。
 ただ、気味が悪かった。おぞましいと言ってもいい。
 誰彼構わず甘える女は嫌いだ。許されると思っていること自体が許しがたい。それを許す男も嫌いだ。世界はそれを駆逐すべきだろ?

 でも、和登のことは、嫌いではなかった。大いなる矛盾だけが、内側に残る。

「だから、めぐみのこと許してやってくれよ。ホントにさ」

 それからは、言葉にならなかった。
 中途半端な暑さに汗は流れて、遠くコートから声が響く。夏のにおいがどこかに残っていた。何もかもがムカムカする。
 そして何より、てのひらに残る汗と、自分自身の虚無感にムカついていた。

 


2006/03/03
飴村