第十八話 / 其の名を


 恋多き男を自称しているだけあって、俺はその手のニオイには聡い部類に入る……と思う。

 付き合い始めの男女によくある反応だけれども、初々しさというか、うざったさというか…あ、それは主観か。おっと失礼。互いに言葉を交わすこともないのだけれども、例えば、一瞬の目配せだとか、互いの距離の置き方だとか、そういうもので、二人の関係が、他のものとは違うということに気がつく。
 説明するのが面倒くさくて、俺は訳を問われると、「そういうニオイがした」と答えることにしているけれども、要するに目の前で繰り広げられている事柄から、必要な情報をピックアップして、処理することが出来れば、わかるんだけど。そう難しいことじゃなくて、単純に俺の興味が何にむいていて、どういう色眼鏡を通して目の前の事実を見ているか、ってのによったりするわけでもあるんだけど。
 ま、だから野生の勘とかいうものじゃないんだな、これが。そんな理屈とかそういうことはどうでもいいとして。兎に角俺は気がついてしまったわけだ。あの二人の違和感に。

 夏祭りの出来事もあって、九月に入って学校が再開されてから俺は最初、たっきーと西沢さんの二人を目で追うようになった。教室の最前列に座る西沢さんを観察するのは簡単で、真後ろに座っているたっきーを、適当に理由をつけて振り返って、観察してみたけれども、二人の間にそれらしき関係性は見いだせなかった。
 もっとも、夏休み前と比べると、よく喋るようになったみたいだったけれども。そのどれもが、西沢さんの方から、たっきーのとこにやってきて、何やら話している、というかんじだったが。野暮は承知で、会話の内容もいくつか拾ってみたけれども、色気のある話、とはちょっと違った気がした。もともと、たっきーはそう女子と喋るタイプの奴ではないから、それだけでも相当な変化なのだけれども。相変わらず、メガネのレンズの向こうの奥二重の目は、興味がないとでも言うように、静かだった。
 そのたっきーを振り返ると、自然と視界にはいるのが、阿部ちゃんと浅倉さんだった。たっきーの隣、窓側から二列目に浅倉さんは座っていて、いつも何かしら本を読んでいた。阿部ちゃんはそのたっきーの後ろ。

 昼休みになると、朝倉さんは、大抵のクラスメイトがそうであるように、仲の良い人ら、浅倉さんの場合実紀ちゃんやそれこそ西沢さんあたりと机を寄せ合うなり、外に行くなりしていて、一時間くらいある休み時間を過ごしていた。阿部ちゃんは、テニス部仲間と過ごすことが多くて、四時間目が終わると、木嶋あたりが、葭原とか小山あたりを連れて阿部ちゃんを迎えにきていた。
 こうしてみると、俺は結構クラスの人間に限らず、学校の人間について詳しい。観察するのが日課というか、癖になってしまっているので、自然と、誰と誰が一緒にいるとかいないとか、そういうことがわかってしまうんだ。

 で、まぁ、そういう理由もあって、俺は、たっきーと西沢さんを観察するつもりで後ろの席を振り返るたびに、同時に視界に入り込んできた浅倉さんと阿部ちゃんの二人の間にあるその空気に気がついてしまったわけだ。

 始まりはいつだったか。思い返してみれば、多分、文化祭のあたりだと思うのだけれど。
 でも、それらしきものはなかった。というよりまず、二人に会っていない。勉強しているに違いないと思っていたたっきーを弓道部のブースで見かけたりはしたけれども(米倉にでもつかまったんだろ、また。なんていうか、間が悪いから、たっきーは。いい奴なのに)優等生阿部ちゃんは、その日見かけることはなかった。

 それでもやっぱり記憶の糸をたどると、違和感は文化祭の後に始まったような気がするし、それこそそれまでは、阿部ちゃんはテニス部につきっきりだったわけだから。うん、俺の記憶に間違いはない。

「うん、絶対そうだ」

 一人頷くと、怪訝そうな顔のたっきーが顔を上げた。たっきーの後ろも、隣の席も今は空で、気がつけば、教室の大半はいなくなっていた。それもそのはず。背を向けた窓から、溢れるほどの夕焼けが差し込んでいた。

「何だよ」

 オレンジ色に染まった顔の右半分が、影になった左半分に代わって、訝しむように色づく。

「あれ、たっきー」
「だから何だよ」
「阿部ちゃんは?」
「阿部? 図書室行くって言ってた気がするけど」

 図書室、ね。
 嫌になるほど短絡的な思考だけれども、間違っていないだろうから、なんともはや。
 それとも、矢張り勘繰りすぎだろうか。

 ちらりと浅倉さんの机を見遣るけれども、そこに答えなんて書いてあるはずもなくて。いつも彼女はそこに座って、文庫本に視線を落としていた。その左斜め後ろで、阿部ちゃんは友達と談笑していたり、たっきーと数学の答え合わせをしていたり、眠そうにあくびをしていたりした。
 ……一体いつから、阿部ちゃんは彼女を見ていたのだろう? 阿部ちゃんの視線は、いつから彼女を追いかけていたのだろう?

「加賀谷、おまえ、どうかしたのか?」

 たっきーの声で、現実にひっぱり戻される。橙色に染まった教室で、廊下側の方の席から、皆川や和泉の笑う声が聞こえてくる。
 狭い教室。四十人もの生徒を詰め込んで、皆、同じ格好をして、同じ授業をきいて。同じように暮らすのに、どうしてこうまで皆異なるのだろうか。
 当たり前すぎることに、今更疑問が浮かぶ。
 いや、そんなことはどうでもいいんだ。

「ん、いや、違うよ。そっか、阿部ちゃん図書室かー…じゃ俺帰るわ。たっきーは予備校は? 今日ないの?」
「心配してくれなくて結構……おまえは? 一人でぼーっと何してんの?」
「まぁいろいね、考え事を。それよりもたっきー、」

 帰らないでいいのか?  と続けると、余計なお世話だ、と返された。たっきーはたまに、とても冷たい。三年間もクラスメイトやっているんだから、少しはうち解けてくれたっていいものを。
 じゃあね、と人が挨拶しているのに、ああ、というお座なりな返事が返ってきただけだった。

 図書室へと向かいかけた足をとめて、昇降口へと方向変換した。野次馬根性のようなものが、東校舎の三階へと続く階段を酷く魅力的にうつしたけれども、阿部ちゃんみたいな男は、本気で怒らせたい人間じゃない。尚も急き立てるような好奇心を押さえ込んで、校舎を後にした。
 校門付近で再度振り返れば、建物の三階のあの窓が、図書室のものであることは知っている。光が反射して白く光っている窓から、目的のものなんて、見えるはずないのに。そもそも全部がただの俺の邪推かもしれないにも関わらず、白い窓を見上げた。

「加賀谷先輩」

 染み入る光に目を細めていると、背中から高い声が呼んだ。反射的に、笑顔をつくって振り返る。

 今帰りですか、と小首を傾げてこちらを見上げたのは、実に一月ぶりに会う後輩だった。九月末あたりから、一度も顔を見ていなかった。
 そういえば、夏祭りで阿部ちゃんとこの後輩と、一緒に少しだけ喋ったことを、なんとなく思い出した。あのとき、今は興味ない、と言って、こちらを一瞥した阿部ちゃん。目が合うと、逃げるように視線は外された。

「めぐみちゃん」
「何か考え事ですか? うかない顔ですね」

 にっこりと、音がしそうなくらいの笑顔。作り物めいた笑顔だったけれども、これ意外のこの後輩の顔を知らなかった。知ろうとしたこともなかった。

「まぁね」

 一夏にも満たない「お付き合い」が終わって、俺らは何もなかったかのように、ただの先輩と後輩の関係に戻る。これが心地よい。この温さが、この緩さが。
 唐突に思い出した。一度、もしかしたらあのたった一度だけかもしれないけれども、阿部ちゃんの口から、浅倉さんの名前をきいたことがあった。めぐみちゃんを待っている間。たっきーと誰が一緒にいるかって、そう聞いたとき。阿部ちゃんが最初に挙げた名前。

「そういうめぐみちゃんは、元気だね」
「今日までだった面倒な実験のレポートの提出が終わって、すっきりしたんで」
「ああ、なるほど」

 どちらともなく、肩を並べて、校門を出た。
 足取りは遅く、後からきた幾人もの生徒に追い越されていく。彼らの遠ざかる背中を見つめながら、敢えて名付けるならば、俺たち二人の関係はなんと呼ばれるのだろうと、そう思った。思って、考えてみたけれども、すんなりとくる何かを思いつけずにいた。それもそうだ。だって、俺とめぐみちゃんの間には、何もないのだから。
 恋人とか、夫婦とか。手をつなぐのに、共に歩くのに、特別な理由が必要だろうか。
 
「なあ、めぐみちゃん」
「はい?」

 休み中、一緒にいるとき、めぐみちゃんは俺を名字で呼び捨てたけれども、たった一度だって、下の名前で呼んだことはなかった。これがこの子なりの線の引き方なのだろうか。深くは考えなかった。学校が終わって再会したときに、めぐみちゃんは得意の笑みをつくって、「加賀谷先輩」と俺を呼んだ。
 他の女友達は、隣にたつ関係になったとたん、嬉しそうに「智」と俺を呼んだ。今思えば、それが気に入っていたのか。俺とこの娘との期間限定の関係が終わっても、始まる前と同様の関係を保っている。いつもは、一度終わった人間とは、再度関わるのを控えているのに。俺は面倒ごとを起こすために関わっているわけじゃないし。じゃあ何のためかと問われると、残念ながら、俺は答えを持ち合わせていなかった。
 ルールを言葉にすることもなく、理解していた。欲しいものが一緒なのか、それとも関わりたくないものが一緒なのか。一致しているのが利害の利なのか害なのかはわからなかったけれども、一緒にいて苦痛ではないという関係は、貴重だ。
 説明する手間も省けて、理解されるよう努力する必要もない。

 ふと、横を振り返って。あとで考えてみて、どうしてそうしたくなったのかはわからなかったけれども。
 整った顔をした後輩がしっかりとこちらを振り返るのを確認して、尋ねた。

「めぐみちゃんは、好きな人いる?」

 自分の声が、他人のもののように響いた。問いながら、自分がどうして、そんなことを尋ねているのか、やっぱり理解出来ないでいた。
 変な話だと思った。夏、互いに指を絡ませ合いながら、だけどそんなことを尋ねはしなかったのに、今。秋の空気の中。手はつながれていない。そんなことを尋ねている自分がいる。

「好きっていうのとは……多分、ちょっと違うと思いますけど」

 いますよ、と続いた。
 それはもしかしたら、俺が初めて聞いた、彼女の本音だったのかもしれない。

「そっか」

 質問しておいて、そんな反応ってどうかとも思ったけれども、めぐみちゃんは気を悪くした様子は見せなかった。
 逆に、くす、とおもしろそうに笑った。

「……加賀谷先輩は、」
「うん?」
「このあと、予定とかありますか?」
「いいや、ないけど」
「じゃあ、お茶して帰りませんか?」
「俺、一応受験生なんだけど、めぐみちゃん」

 そうは言ったものの、断るつもりはこれっぽっちもなかった。
 きっとまた、説明するまでもなく、めぐみちゃんには考えていることが読めてしまったのだろう。

「息抜きですよ、息抜き。行って見たいお店があるんです」

 ね、と笑って、めぐみちゃんの手が、鞄を持っていなかった左手に触れる。冷え性だろうと予想していた彼女の手は、やっぱり冷たかった。

「俺は彼氏代わりか」
「夏に彼女代行したじゃないですか」

 どちらともなく、手をつないだ。
 人によっては、やたら恥ずかしがる行為だけれども、俺にとっても、めぐみちゃんにとっても、この行為に特別な意味はない。
 指を絡ませないだけ、つまりあの夏の日よりは、遠い。

「なんて言うんだろうな、こういう関係」
「さあ?」

 ほぼ触れるだけの形だった手は、どちらも力を込めなければ、するりと解かれた。
 意味はない。いつだって意味なんてなかった。

 友達? 恋人? 先輩後輩?
 また同じ問いを繰り返して。だけど考え付く全ての答えが全部違った。

「……ときめきが欲しいよ、俺も」
「じゃあまず、恋をしないと駄目ですよ、先輩」

 手の甲が、歩くと偶に触れる。だけど、もう手はつながれることはない。そんな距離で。
 相変わらず、ゆっくりとした足取りで、ゆるい下り坂を歩く。

 思った。
 阿部ちゃんみたいな男は、こういう風に、手をつなぐことも、誰かと歩幅を合わせて歩くこともないのだろう。彼は、彼が、そうする相手はきっと、不特定多数ではなくて、いつも一人。そしてその一人は、きっと特別な理由が必要な人だ。
 そして、大抵の人間にとって、これは何かしらの意味をもつ行為なのに。

 阿部ちゃんなら。
 彼ならば。

 …わかろうはずもないこと。

 背中を振り返っても、図書室はおろか、校舎の影すら見えはしない。
 目を閉じて、瞼の裏に残る校舎の残像を暗闇で塗りつぶして。いぶかしむ後輩に笑顔を向けて、長いゆるい下り坂を、ゆっくりと、ゆっくりと。


2006/12/07
工藤