第十七話 / 契機


 十月、文化祭の季節になった。その頃の自分はというと、9月の市民戦以降、テニス部の部長を後輩の高倉に引き継いで、どことなく時間を持て余していた。本来なら一学期にでも引き継ぐべき部長業をいつまでも続けていたのは、まだどこか、縋っていたかったからかもしれない。
 もちろん受験勉強をサボっていたというわけではない。けれど、これまでの数年間、毎日のように動き続けていた体は、その動かない生活というものに上手く順応できなかったのだ。
 高校受験のときは、なんだかんだ言いつつほとんど勉強をしなかった。今思えば、あの頃の勉強はずいぶん楽だったと思う。

 結局、早朝に走りこむことにした。ラケットはしばらく封印するにしても、基礎体力が落ちることだけは我慢ならない。そういったことを京平に話すと、呆れたように「お前、変なとこで馬鹿だよなぁ」と言われた。京平には言われたくない台詞だった。

 話を戻そう。
 文化祭だ。
 受験生が息抜きできる貴重なこのイベント、盛り上がらないはずがない。自由参加ではあったけれど、自分はこんな時にまで勉強をする部類に属せなかった。
 けれどもステージの企画にあまり興味がない身分としては、部のブースで働いている方が性に合っていた。いくら引退したといえど、毎年人手不足に陥る文化祭では、手伝ってくれるのならばいくらでも、という状態になる。ひどい時には遊びに来たOBを手伝わせたこともあった。どちらにしろ、OBだろうが先輩だろうが、知り合いなればごますり、泣き落とし、何でもありで売りつけようとするのが我らが在校生なのだけれど。

 当日の朝、テニス部のテントに顔を出してみると、やっぱり準備で何かと戸惑っていた。段ボールに紙を貼った看板には、たぶん女マネが書いたのだろう、可愛らしい感じの配色で「テニス部 焼きそば」とあった。

「ちょっともう、阿部先輩、無理っすよ」

 朝の準備の時点で、あれがない、これがない、例の件はどうなった、シフトは、何の手配は、エトセトラ。慌しい割に、実働人数が少ない。もちろん居ない人間の中にはクラスの屋台や兼部している方を優先したいという奴も少なからず居るはずだけれど、当然サボりも含まれる。

「何時から始まるんだっけな」
「9時からですよ」
「で、何が無いんだっけ?」
「学校から借りるガスコンロが今年は少なかったんで、諒が携帯ガスコンロを持ってるって言うから任せたのに、まだ来てないんですよ。まあ、まだ開場まで1時間くらいありますけどね、諒が包丁もまな板もボウルも持ってくるって話だったんで。アイツ、普段の生活だってこれぐらいの時間には学校来てますよ」
「携帯は……って、連絡つくなら慌ててないよな」
「ですよ。で、後輩に材料の買い出し任せたんすけど、見事に間違って」

 うんざりとした顔をしながら、その辺りに放置された段ボール箱に手をつっこみ、高倉が取り出した一本のボトル。1リットル以上あるのは確実であろう、その業務用の持ち手付きペットボトルの中では、焦げ茶色のソースが静かに波打っていた。

「ソースだろ? 問題あるっけ?」
「ありますよ、このラベル見てください」

 見慣れたオレンジ色のラベル。はて、何がおかしいのかと思いながらじっと見つめると、すぐに高倉の言う意味が分かった。

「あー……確かに、とんかつソースで焼きそば作るわけにもいかないよな」
「これが2本ですよ? この業務用サイズがですよ?」
「まあ、妥当な量だとは思うけど、買い直しは痛いよなー」
「それですよ。いったいこのとんかつソース、どこで使えって言うんですか?」
「さあ? 寮生にでも寄付しちゃえば?」

 詰める透明のパックはある。割り箸もよし。複数購入客のための、持ち手のついたビニル袋も完備。

「おい高倉、輪ゴムは?」
「……あ、」

 用意していなかったらしい。そのままがっくりとしゃがみこみ、あああと呻くような声を出しながら高倉は沈没した。沈没するのは勝手だが、働いてもらわなくては困る。

「こら、高倉、お前去年のファイル渡しただろ」
「……あー、や、確かに貰いました」
「読んでないんだな」
「……すいません」
「やっぱりかぁ。あれに去年のレシートとか準備したもんのリスト貼り付けといただろ? どうせ毎年焼きそばなんだし、ちゃんと見とけよ」
「……はい」

 すっかりしょぼくれた高倉を見ると、少しかわいそうにもなってきた。鳴海はまだ来ていない。あいつ副部長になったはずなんだが。

「キャベツ、ニンジン、玉ねぎ、豚肉、全部あるな?」
「あります」
「麺も足りるだろ?」
「はい」
「塩コショウ。それから油と、焦げ付きをとる金属製のヘラとかフライ返しとか。それから空き缶とか」
「塩コショウ、油、フライ返し、全部あります。でも、空き缶は何でですか?」
「おつりとか、小銭いれ。蓋ができるやつの方がいいんだよ。たまに、誰も見てない隙にちょろまかす客とか居るからさ」
「あ、それもないですね」

 指折り数えて確認する。意外と、去年のことを覚えている自分にびっくりした。

「じゃあ、ソースと輪ゴムと、他に何か要るか?」
「そういえばテープの類が無いんですけど。事務室から借りたら「使用する備品は各々で購入してください。すぐに返してほしいので」って言われたんです」
「じゃあガムテープでも買っとくか。チャリだから帰ってくんの開場ギリギリになるけど、それでもいいか?」
「え、行ってくれるんすか?」
「別にいいよ、俺は3年だからクラスの屋台ないし、こんな日にまで勉強する気ないし。追加購入があったら早めに携帯に連絡してくれれば買うから。あ、領収書渡すから、立替分あとで払ってくれよな? それから、今のうちに野菜切っとけ。開場直前には鉄板温めろよ」

 それだけ言って、自転車置き場に走る最中、でかい紙袋をひっさげた鳴海とすれ違った。なんとなく苦笑いしながら挨拶したら、鳴海は変な顔をしていた。

 忙しいのは嫌いじゃない。思い切り走り回って、動き回るのは性に合っていた。10月の風はそこそこ冷たかったけれど、今日は陽射しが強かったのでそんなに寒いとは感じない。そんな空気の中を、自転車で突っ切っていくのはひどく心地が良かった。

 自ら使いっぱしりのような真似をして、ようやく学校に帰ってきたときには開場10分前を切っていた。テニス部のテントには、さっき見た時よりも人が集まっていて、みんなある程度仕事を終えたのか、仲良く談笑していたりもする。
 わざとのんびり近付いていくと、真っ先に気付いた鳴海が笑って「お疲れ様です」と言った。

「ほら、必要なもん買ってきたぞー」
「うわ、ありがとうございます。ホントすいません」
「別にいいよ。その代わり、来年こんな事態になったら今度はお前が働けよ」
「はい」

 そこから先はもう新世代の番かもしれない。というか、テントの中には1、2年生しかいなくて、ほんの少し居心地が悪かった。
 さて、どうしたものかとぼんやり考えはじめたところに、高倉の間抜けな声を聞いた。

「……あれ? 阿部先輩、俺、ガムテープ頼みませんでしたっけ?」
「……あ、」

 しまった、といった感じのこちらの表情に気づいて、高倉が気まずげに視線を逸らす。もう一度俺を使うわけにもいかないし、かといって開場間近の状態では、一人でも人数が多い方が安心できるし。たぶんそんなところ。
 高倉が何か言おうとしたのを遮って、

「悪い、俺、どっかからかガムテ借りてくるわ」
「あ……お願いします」
「おー」

 くるり、背中を向けて足早にそこから遠ざかる。
 あー……ミスった。ひじょうに恥ずかしい。つか、説教できる身分じゃないじゃん、俺。
 ともかく目下の問題は、どこからガムテープを調達するかというところにある。他のテントを探せばあるかもしれない。しかし、朝一から開場準備まで手伝っている3年生がどれだけ居るかといえばあまりにもあやふやだ。下級生の知り合いは、ほとんど部活関連だけだし。
 とりあえず、売店を確認しに行こう。売り切れてる……っていうか、文化最中も開いてたかどうか覚えてないんだけど。少なくとも校舎内を探せば、どこかの教室が開いてて、ガムテのひとつやふたつ、見つかるかもしれない。そんな風に考えて向かった。

 テニス部のブースから一番近い建物は文化系クラブの部室棟で、その先に校舎が繋がり、売店がある。普段は文化部の部室棟には寄らないのだけれど、今日は特別な気分だったから。なにせゴスロリとナースが敷地内を走り回っても誰も咎めないような、そんな特殊な日だ。学校であって学校でないその雰囲気の中で、なんとなく足を踏み入れてみたくなった。
 埃っぽい廊下の両側に、木製の扉がいくつも。そのドアのそれぞれは少し色あせた部紹介のポスターで飾られていた。
 たぶんもう準備に駆け回った後なのだろう、部室はどこも静かで、何の音もしない……と言いたかったけれど、自分の足音に紛れて誰かの声が聞こえていた。女子の声か? 話し声が。
 でもって、それが美術部の部室っぽいところから聞こえてくるという時点で、頭の中にはたった一人しか居なくなっていた。そういえば、今日は浅倉を見てない。
 もしかしたら、美術部だし、ガムテープぐらいあるかもしれない。半分くらい言い訳まじりの理由を思いついた時点で、ふらふらと扉に吸い寄せられた。

「っだから――!」

 ガラリとドアが開く音と、「彼」の言葉がちょうど重なって、思わず「失礼します」と断るタイミングを逃した。
 浅倉が居た。
 少なくとも、俺の知らない男と。
 足ったまま向かい合っていた二人は、思わぬ闖入者の出現にあまりにも驚いていて、それと同時に言葉を失っていた。たとえば彼の、「だから」の続きだとか。

「――あ、その、浅倉、ガムテープとかあったら貸してほしいんだけど」
「ガムテープ? ああ、うん、あるよ」

 強張った表情をした浅倉が戸棚に駆け寄ろうとしたところを、彼はそっと捕まえて「やっぱり今日は帰るよ」と言った。少しその顔に疲れが見えた気がした。それから、それを聞いたときの浅倉がほっとしたような表情を見せたこと。
 出入り口ですれ違うと、足音があっという間に遠ざかる。永遠にも近い時間をかけて。

「……ごめんね、阿部君」

 ぽつん、と浅倉が零した。ところどころが錆びたスチールの棚から、使いかけのガムテープを取り出しながら。
 おそらく、修羅場というのだろう、ああいうのを。大学生っぽい男だった。浅倉の彼氏なんだろうか。ともかくただ気まずくて、本当はごめんと言いたかったのはこちらだというのに。
 ゆっくりとした足つきで近づいて、ガムテープをこちらに渡す小さな手。この本が、いつだってミステリーのページを捲っていた。そしてここで絵を描いていたのかもしれない。あの男に触れていたのかもしれない。
 受け渡しの時、もちろん指は触れなかった。それがほんの少しもどかしくて、聞くべきではないことを聞いた。

「今の奴って、浅倉の彼氏?」
「――――」

 浅倉は言葉に詰まった。こちらを見上げた目が、動揺という動揺をほとんどかき集めて、止まった。
 そんな顔をさせた自分の質問にも、そんな顔をさせたあの男も、ほんの一瞬だけ憎たらしくなる。あーあ、やっぱ修羅場だ。そんなところに足踏み込んで、何がしたいんだ、俺。

「つか、俺に聞く権利とかないと思うんだけどさ、俺は浅倉のこと好きだから、撃沈するなら今のうちにしときたいんだけど」

 更に追い詰めると、浅倉の目が不安定に揺れる。
 泣くのか。徐々に水の膜が厚くなる数秒間。その間、困惑と後悔とわけのわからない衝動がごっちゃになって、でも無表情のまま浅倉を見ていた。

「……もう、嫌だ」

 震える声で、浅倉は言葉を搾り出した。何が嫌なのかは言わなかったけれど、なんとなく、その言葉はさっきの男に向かって発せられたのだと分かった。

 なんとなく抱きしめても、浅倉は抵抗しない。勘違いしそうになる。勘違いじゃないのか分からなくなる。朝倉は声もなくただ小さく痙攣するように震えていて、ときどき喉を甲高く鳴らした。その中で「助けて」って聞こえた声が、本当に浅倉の言葉なら、本当にそうしてもいいのに。
 そうやってキスをした。
 何かが始まったのと同時に、何かが死んだのだと分かった。


2006/11/19
飴村