第二十話 / 彼女の決断


 行くか行かないかで迷っていた。悠は、訪ねていけば拒否することはなかったけれど、ときどき分かりやすいぐらいに戸惑う。ちょっと驚いて、視線が一瞬だけ泳いで、困ったような優しい笑い方をする。
 悠は言葉が少なかったから、気付けば表情で彼女の気持ちを読むことが当たり前のようになっていた。

 困った顔。
 こっそり喜んでいる顔。
 辛いのに無理している顔。
 嬉しい顔。

 分かる事が幸せに繋がるのかどうかは分からない。分かって良かったこともあったし、もちろん知りたくもない感情に気付く事だってあった。
 どちらかといえば、「分からない」ことに怯えている方なのだと思う。
 でなければ、携帯を盗み見るような真似はしなかった。あんな、罪悪感と後悔にまみれ、息がほっそりと尖っていくような恐怖に身を竦めながら、ほとんど何の見返りも無いことをする必要なんてどこにもなかった。
 悠の携帯も、部屋も、手帳も、いつだって潔白だ。
 友達との他愛ないメールのやりとり、部活の予定。ときどき男の名前は見かけたけれど、必然的な連絡事項以外は見られなかった。

「……先輩?」

 じゃあ、何に怯えて、怯えながら彼女の秘密を見つけ出そうとするのか。
 アパートのドアを開けた悠の、ほんの少し驚いた顔を見ながら、深く深く、自分の中に渦巻く何かからそれを見つけ出そうとしていた。

「来たら、まずかったかな?」
「え、あ、ちょっと待って下さい、散らかってるからすぐ片付けます」

 言うなり素早くドアが閉まり、小さく慌てた足音が聞こえた。
 いい加減にケーキを持ってくるのもマンネリ化してきた気がするので、とりあえず和菓子屋に寄ってみたけれど、小さい割に思ったよりも値が張って、普段と勝手が違うのに戸惑った。普段なら、自分のために和菓子を買うことなんて絶対にしないから。
 そろそろ外で待つのも寒くなってきたなぁとぼんやり思いながら、埃をかぶったステンレスの柵にもたれかかる。焦げ茶色のブルゾンが埃で真っ白になってしまう気がしたけれど、それは部屋に入る前に払っておけばいいだろう。

 そんなことを考えているうちに、カチャリとドアが開いた。

「先輩、ごめんなさい、片付きましたからどうぞ」
「ああ、うん、じゃあお邪魔します」

 言いながらブルゾンをはたいて、部屋の中に入る。
 いつもの色、いつもの空気、悠。

「思ったより課題片付けるのに時間かかって、最近あんま連絡もできなかったから」

 言いながら和菓子の入った紙袋を渡すと、彼女はたとえようのない笑顔でそれを受け取った。私はあなたの話を聞いてます、と言わんばかりの。実際聞いているのは分かっているけれど。

「嬉しいですけど、無理しないでくださいね」
「無理してるつもりはないよ」
「そうですか?」

 悠がそう言ったきり、続けるべき会話も思いつけず、お互い揃って沈黙した。なんとなく、その意味を分かっていた。悠はすばやく立ち上がって、「お茶を淹れますね」と誰に言うともなしに呟いた。
 頷こうと思ったのに、気付いたら捕まえていた。
 悠の細さ、柔かさ、暖かさ。
 白っぽい皮膚の下に流れている赤い幾筋。まるい爪の生えた細い指が、どれほど微弱で繊細に、綿毛を抉るように動くかを知っている。長く少し茶色がかった髪は風によく揺れて、リップクリームだけ塗った滑らかなあかい唇にへばりつく。
 久々に抱きしめたその体が、その器に内包された彼女そのものが、たとえようもなく愛おしい。

「会いたかった」

 意識したわけでもなく、ぽろりと零れだした言葉があまりにも的確に自分自身の心をとらえていたのに驚きながら、静かに息を吸い込んだ。いつも変わらないシャンプーか何かの匂いが彼女の髪からする。甘く人工的な花の匂い。
 彼女は甘い煙だ。甘美で息苦しい空気。鼻から、口から、肌から入って、肺を満たし、血管をめぐって体の隅々にまで行き渡る。
 胸が高鳴るとか、そんなものではない。ただ落ち着くというほど年月を重ねたわけでもない。
 ただ腕の中に居て、少し癖のある笑い声を聞いていると、心臓を動かす筋肉のひとすじが引っ張られるような、切ない痛みと共に全身が弛緩する。心地よい倦怠感と鈍痛。

 額に、耳のてっぺんに、鼻の横にキスすると、悠はくすぐったそうにした。
 そして唇に口付けようとすると、時間が滞った。

「――悠?」

 この目を、どう呼ぼう。
 まん丸に見開かれた瞳の、絶望的な薄い涙の膜を。
 視線が移ろったわけでもないのに、泣いているわけでもないのに、白鳥が乱した水面みたいにその目はゆらゆらと揺れていた。

「どうかした?」

 首が、ゆらゆらと横に揺らされる。
 小さな動作だけれど、はっきりと否定の意志を示したそのこうべは、それからぱたりと動かなくなった。

 たまりかねて「悠」ともう一度名前を呼ぼうとした、その響きと、彼女の響きは確かにシンクロした。

「ごめんなさい」

 ――なにが?
 そう聞く前に、悠の表情を確かに見た。見慣れたその顔の変化。僅かによった眉根、不安定な口元。それだけで、彼女がどれくらい真剣な心積もりでその言葉を発したのかということと、これから始まるのはたぶん自分にとって不幸な話だということが分かった。
 思い詰めた感じの表情が見ていられなくて、なかなか出てこない言葉を促す。

「別れ話?」

 顔を上げ、視線を交わし、泣きそうなのか絶望しているのか、それとも全く何も感じていないのか分からない表情で彼女は頷いた。

「何でか、理由を聞いてもいい?」
「……知ったら、きっと先輩が失望するから」
「失望させるような理由なんだ?」
「…………」

 沈黙、沈黙、それから自分自身のため息。

「悠が別れたいって言うんだから、失望させたくないって言うのは間違いだと思う。失望しなかったからってどうなる? 悠のことを好きなままでいるとか? ――ちゃんと理由を聞かないと、こっちも納得しきれない」

 ゆっくりとそう言うと、悠はしばらくこちらを見つめ、そして観念したように小さな声で言った。

「先輩が、私のプライバシーまで全部知ろうとするのが、苦しかったんです」

 その一言を聞いた瞬間、「ああ、やっぱりな」という至極冷静な感想が心に漏れた。真理子のときだって、分かっていたことなのに。
 気味が悪いぐらい、自分でも動揺していないことが変な気分だ。

「でも、ほんとはそれだけじゃなくて……そういう時に、私を好きだって言ってくれる人に会ったんです。今までは、それでも先輩の傍に居たかったけど、その人に会ってからは、もっと何の裏表もなくて、もっと楽に呼吸していいんだって気付いたんです」
「……うん」
「先輩は今でもすごく大事で、好きなのに、でもその「好き」っていうのは先輩が私に与えてくれたり、待ちながら求めてるものと違うんだって自分で分かってて……でも、本当に好きになりたかった……」
「うん」

 だから、だから。
 精一杯言葉を探す彼女を見て、愛おしいやら悲しいやら、または憎いのかまったく分からない気持ちになった。結局、彼女は二人の男を天秤にかけて、片方のことを捨てようとしているのだ。もう片方のことを選ぶのかどうかははっきりと言っていないけれど、たぶんその男と付き合い始めるのだと思う。
 もしかしたら、もう付き合っているのかもしれないけれど。

「――その人は、優しい?」
「……優しい、というよりは、正しい人です」
「ごめん、負担かけて」
「――――」

 負い目を感じた顔をして、悠はすぅっと黙った。
 自分の手を離れて、そっと机の上に置かれた和菓子の紙袋が悲しかった。
 引きとめたいのであれば、引きとめる権利は確かにあるのだと思う。もともと悠は、どこか流されてしまいやすい人間で、自分の居場所を探すというより、自分を繋いでおいたり受け止めてくれる人を探しているような節があったから。もっとも、それに気づいたのは付き合い始めてしばらくしてからのことだけど。
 強くその手を掴めば、まだここに居てくれるかもしれない。
 ただ、ずっとずっと待っていたのは、彼女が同じようにこちらのことを求めてくれないだろうかと、ずっとずっと期待していたからだ。繋いだり受け止めたり愛してくれるなら誰でもいいなんて、そんな対象でありたくなかった。

「その人が好きになった?」

 聞けば傷つくと分かっていても、聞いていた。この柔らかでメレンゲのように白い頬に誰かが触れることなんて、想像したくなかったのに。
 でも、神妙な面持ちで、ゆらゆらと不安げに「たぶん」と彼女が答えたとき、結局何も変わっていないのだということに気づいた。彼女は居場所を変えただけで、俺に対しての感情と、それからその「彼」に対しての感情に大きな差はないままで。
 面の皮がひきつったように浮かべた笑みは、乾いてぼろぼろと砂になった。
 愛してたのに。紛れもなく。
 彼女は不安定なまま、また誰かを傷つけようとしている。

「ずるいね」

 はっとしたように、顔が上がった。その言葉に心当たりでもあるのか。

「嫌いになったわけでもないし、他の誰かを好きになったわけでもない。それでも切り出すのは、こういうとき、俺が「嫌だ」って拒否しないのを知ってるから?」
「……分からないです」
「ほら、また濁した」

 甘い煙、曖昧なひと。
 それでも好きで、だからこそ憎くて、愛おしくて、上手くなじることもできずにいた。

 分かった、もうさよならの時間なんだ。
 悲しかったけれど、拒絶した後に続く道はたぶんずっと下り坂なのだろう。いつかは訪れるはずだった日が、その「彼」の出現でほんの少し早くなっただけなのだ。

「悠、携帯貸して」

 そう言いながら差し出した手に、ひどく訝しみながらも彼女は自分の携帯を置いた。ある程度操作にも慣れたその携帯。
 アドレス帳を開き、自分の名前を探し出した。
 名前と、電話番号と、メールアドレスと、誕生日。
 削除を選ぶと、画面は律儀に聞いてくる――本当に、それでいいの?
 静かに「はい」と答えると、名前と、電話番号と、メールアドレスと、誕生日は、彼女の携帯電話の中から消失した。少なくともSDカードのバックアップの中にはない。彼女が他にバックアップをとっていれば別だが、彼女からこちらに繋がる道は死んでしまったのだ。
 携帯を返すと、彼女は不安に満ちたネオンテトラのような目でこちらを見た。

「何をしたんですか?」

 今更そんなこと聞いたって、何も変わりはしない。
 変えてはいけない、彼女ではなく自分のためにも。

「俺のアドレスを消したんだよ。もう二度と会いたくないから」

 そして、静かに、静かに、長い時間をかけて、彼女は泣いた。音もなく、震えもせずに、少しうつむいて涙を流した。

「卑怯だよ、悠は」

 自分で出した一言に胸が痛んだ。
 心では一緒に泣くことができたのに。


2006/12/27
飴村