第二十一話 / 僕らの今後


 菊名先輩は優しかった。
 阿部君も優しい。
 私は、私が卑怯だということを深く深く自覚していたけれど、無条件に抱きしめてくれるこの暖かい腕を、どうしても忘れることができずにいた。
 一度覚えた甘さは、身に染みついてとれない。知らなければやり過ごせた、たくさんの寂しさだとか辛さを、その手に預けることができた。甘く柔らかく、あたたかい蜂蜜の海。私はその幸福を忘れることはできないし、知る前よりもずっと弱くなってしまったような気がする。

「浅倉、今度の休みさ、たまには息抜きしに行こうか」

 阿部君は、すごく分かりやすい。私の卑怯さに苛立ちを抱えていたし、それが一定以上になったらきちんと私のことを責めてくれた。
 私が卑怯なことをしようとすれば、きちんと手を引いてくれる。この人の進む方向についていけば、たぶん間違えることなく道を選べるだろう。だって、ほら、菊名先輩はいつだって見守ってくれたけど、あの人も私と同じ、間違えた道を選ぶ自分の卑怯さに悩んでいる人だったから。

「息抜きって、どこで?」

 ほら、あまりにも同じだといけないから。
 私が阿部君を選んだのは、きっと正しい選択だったと思う。私と菊名先輩は、一緒に居てもいい方向に作用しあえることはなかっただろうから。お互いに少しベクトルの違う負の繰り返しに悩まされて、支えあうことも上手くできずに沈んでいっただろうから。
 だから、私が阿部君を選んだのは、きっと正しい選択だったと思う。

 図書室で交わす密やかな話し声や、ルーズリーフに書き殴る他愛の無い話は、数式や漢字だらけの世界の中でほんの少し幸せにさせてくれる。

「映画でも見に行こうか。ほんとは思い切り体動かしたいんだけど、浅倉はそういうの向きじゃなさそうだもんな」
「確かに、得意じゃないかも。でも、もし得意でも阿部君にはついてけないと思うから辞退しとくね」
「わざわざ遠出するのも何だし、近場でいいだろ? でも学校帰りとかじゃなくて、一日潰してさ」

 彼の手元に視線をやれば、さっきから物理の発展問題に入ったきり、すっかり手が止まっている。行き詰ってるんだろうな、と分かって、思わず笑った。

「そういうのもいいかもね。私、買いたいものがあるから、ちょっとは付き合ってくれる?」
「いいよ。その代わり、そのとき駅前の喫茶店、一緒に入ろうな」
「え、何で?」
「男同士とか一人じゃ入りづらいんだよ、あの店」
「そうかもしれないけど……阿部君、甘いもの好きなの?」

 阿部君の言ったお店は、おそらく、私の周りでもすごく人気のケーキの美味しいところだったから。
 ところが阿部君は驚いたように「まさか」と言った。

「珈琲が美味いらしいから、一度行ってみたかった」
「そうなの?」
「浅倉は行ったことないのか? それともケーキだけとか?」
「ううん、ちょくちょく行くし、ケーキと一緒に飲み物も頼むけど、いつも珈琲じゃなくて違うもの飲むから……」
「どんなの?」
「ココアとか」

 阿部君はちょっと笑って、「よく甘い物食べながら甘いもん飲めるよな」と、私のことをからかうように褒めた、と思っておく。
 素直な笑顔は菊名先輩みたいに穏やかな感じじゃなくて、よく晴れた空に浮かぶ太陽にまんべんなく照らされたテニスコートの芝生みたいだった。

 私は、阿部君が、好き。

 呪文のように何度も頭の中で繰り返しているうちに、なんとなくそれは樹液みたいに身に染み込んだ。少なくとも私は彼のことを愛おしいと思うようになり、大切だと思うようになった。
 でも、まだ、会えないことを寂しいとは思えない。そういう時は呪文を繰り返す。
 私は、私は、私は。
 
 そうでもしないと、私は、あっという間に砂浜の泥に飲み込まれた。

『俺のアドレスを消したんだよ。もう二度と会いたくないから』

 今でもその言葉は私の内側で無限に反響し続けている。私は、寂しかったし、悲しかった。それがどれほどの我儘か自覚していたから、阿部君を大切にすべきなのだと思う。
 手放してから愛おしいと思うなんて。
 手放した方が居ない時に恋しく思えるなんて。

 そういうことを思っていたから、きっとバチがあたってしまったんだと思う。
 朝からどうにも目覚めが悪くて、体がどうにもだるくて、ぼんやりと腋に差し込んだ体温計が甲高く鳴ったと思ったら、それが38度弱をさしていた。
 阿部君と約束した休日だった。

 そのことを阿部君に連絡して、できれば今日の約束は明日にするかまた来週に延ばして欲しいと頼むと、彼は冷静に私の症状を聞いて、それから住所を尋ねた。そうか、彼は菊名先輩じゃないから私の住所なんて知らなかったのだと思い出す。
 いまだに口に慣れない住所をなんとか吐き出して、ゆっくりとやわらかいベッドの上に溶けた。暖かいのに鳥肌が立つ。熱、上がったのかな。
 そのまま瞼が張り付いて、意識のないままいくらか時間が経って、けたたましいぐらいのインターホンの音が鳴った。私はなんとか体を起こして玄関へ向かう。
 銀色のチェーンはつるつる滑ったり突っかかったりして、まったく思うように動いてはくれない。私の指も、何もかも。なんとかチェーンをはずして鍵をあけると、阿部君がやっぱりそこに居た。

「悪い、無理させて」
「……? 無理じゃないよ?」

 私がよっぽど熱に浮かされたように見えたのか、彼はずっと外気に触れていたアイスミルクみたいな温度の手を私の額に当てた。

「――やっぱこれじゃ分かんないな」

 そう言って彼の額が私に近づく。当たった額も、私にとってはやっぱり冷たくて、でも彼は怪訝な顔をして。
 再び「熱は測った?」とか、「朝は何を食べた?」とか、そういったことを聞かれた。私が答えるたびに彼の顔は苦々しく歪んで、私は再び体温の残ったベッドの上に追いやられた。彼はチェーンも鍵もきちんとかけた。

「どうせ、最近冷え込んできたのに薄着のままで勉強したりしたんだろ?」
「そんなことはないと思うけど……」
「まあどっちにしろ、今は安静にするだけだよな。何か欲しいもんあるなら買いに行こうか?」
「ん……欲しいもの、は、ないかも……」

 朝の蜘蛛の巣。柔らかい視線が落ちてくる。
 私が目を閉じると、冷たい手が額から頬にかけてを撫でていった。私が力ない指でそのはじっこを捕らえると、彼が僅かに笑ったのが分かる。
 彼は私のベッドのすぐ隣に座り込んで、私がゆるく握った手をずっと動かさないでいた。

「本当に何もすることないのか?」
「うん、平気」

 そして少しの沈黙。暖かな抱擁。
 彼のかたい腕だけが伸びて、私の上半身の一部を抱え込んだ。ああ、どうしよう、そんなに近づいたら風邪が伝染してしまわないだろうか。
 綿のベッドカバーが擦れる乾燥しきった音がして、彼が近づく。
 私は目を閉じて、ほんの少し首の向きを考慮してあげるだけで良かった。そうすれば物事はあちらから自然と運んだ。
 濡れた舌が唇を湿らせること、柔らかなその生き物に同じように応えること。
 瞼が重かったのに、そういうことは自然とできた。そういう自分を不自然とも思わなかった。

 目の前の彼の目が湿っているのを見て、こんな表情を一度だけ菊名先輩がしたことを思い出していた。でも、あの時は何もなかった。ただかたく私を抱きしめて、離れたときにはいつもと変わらないその人がそこに居た。
 何を思っていたのか、なんとなくでも予想がつかないほど子供には戻れない。でも大人にもなりきれなかった。大人でも子供でも、どちらでもよかった。

「っ、ごめん」
「……何が?」

 答えないまま、首筋に短い髪の頭がもぐりこむ。しっとりと湿ったあたたかみが触れて、妙に暖かい吐息が冷たく乾いた。

「――浅倉が、風邪ひいてるって分かってんだけど……」

 じゃあ、なんでそんな声出すの?
 頭の中はぼんやりしているくせにやけに冷静で、普段はそうであるはずの阿部君の妙な高まりが私には理解できずにいた。彼の声は熱っぽくて、言葉は我儘なくせに遠慮がちで、すごく卑屈に聞こえた。私は酔えなくて。

「浅倉……最後まで、いいか?」

 私は力なく口を開いて答えようとした。でも、「いいよ」、じゃなくて、「別にいいよ」と言おうとした自分自身に驚いて、そのまま半開きの口で黙った。

「――だめ」

 瞳がどんどん乾いて埃を吸い込む感じ。
 私ははっきりと焦点のあった目で阿部君のことを見ていた。口角が何の意識もない場所まで戻り、頬が冷え冷えとする。彼の瞳は少し驚いていた。

「――だめ、私、また逃げる」
「……何が?」
「阿部君が好きなの。阿部君が好きだから……」

 呪文、呪文、呪文。
 頭の中で、音にして、繰り返しても繰り返してもどす黒い重油の海。そういうときに限って、一番幸せだった頃の菊名先輩との思い出なんかがふっと過ぎってしまうものだから、熱で弱くなっていた涙腺からほろほろと零れ落ちた。
 彼は慌てて私を見たけれど、彼は阿部君で、菊名先輩でもなくて、でも菊名先輩でもだめなんだって分かってしまった。

「私、やっぱり、阿部君のことそういう風に思えない」

 体なら、たぶんあげられる。でも、私ですら自由にならないこの感情は、また何もあげられなくなってしまう。いつか彼は心ごと望むだろうし、望まなくなってしまったらそれはそれでお終いなのだ。
 温もりが、愛おしいのに。
 でもきっと、私は、菊名先輩でも阿部君でも、誰でもよかったんだ。私は、彼らが私を選んでくれたみたいに、彼らに執着することもできないで、甘えるだけ甘えていた。

『卑怯だよ、悠は』

 卑怯だ。
 好きになりたいと願ってみたって、願っていたって、どうだっていいって思ってるくせに。
 もうだめだ、切り離さなくちゃ。このまま利用するだけ利用して、もしかしたらその延長期間に得られたかもしれない彼の暖かい未来のチャンスを食いつぶしてしまわないように。

「別れよう」

 泣きながら言うのは、きっと卑怯だ。やっぱりそうだ。
 でも、この人が大切で、優しくしてもらえて嬉しくて、好きだった。大切にしあうことはたぶん出来たはずなのに、どうして恋愛感情が入ったら駄目になってしまうんだろう。大切で、好きなだけじゃだめだろうか? 執着できなくても、選ぶことができなくても。
 彼はベッドに横たわった私と同じ目線で、私のことを見ていた。

「浅倉、」

 なだめるような優しい声。正しくてまっすぐなこの人。
 私と居て不幸にならないように、私を忘れて幸せになるように。そんな風に私が願っているのは、「私とは無関係な場所で」幸せになってほしいと、不幸になっては悪いからと、どうしようもなく汚い願い事だった。

「何なのか全然分からないから、ちゃんと説明しれくれよ」
「説明なんていらない、もう駄目なの、話したくないから、帰って。もう連絡しなくていいから」
「何だよそれ」

 苛立ちの混じり始めた彼の空気がひょっと冷めたかと思うと、重く低い声で彼は「アイツと寄りを戻すのか?」と聞いた。
 彼は今でも菊名先輩のことを気にしていたのだ。
 私は枕に突っ伏して泣いたまま、声もなく頷いた。
 うそつき、悲劇のヒロイン。もうそれでいい。本当のことを話したら、彼はもっと深く、一緒に考えてくれるかもしれない。菊名先輩みたいに待ってくれるかもしれない。まだこの温かみが私のすぐ傍にあって、私を受け入れてくれるのかも。
 そんな期待をする自分自身の苦さと、何度もリフレインする菊名先輩の責め言葉が、泣けて、ただ泣けて。

「――分かったよ、もういい」

 荒々しげに立ち上がった阿部君が、フローリングの床を蹴って、チェーンをはずし、鍵をはずし、そしてドアを手放して閉めた音を、私は泣きながら聞いていた。
 今、追いかけたら。
 私はもう少しの間幸福で、卑怯者になるのだと分かっていた。どうして私たちの幸福は上手く支えあうことができなかったのか、そもそもの願いの差異を理解できなかった私たちが悪いのだと知っていても。

 押し殺そうと思えば思うほど、馬鹿みたいに甲高い声が喉から落ちた。愛してる、愛してた。それが彼の望んだ形の好意ではなかったにせよ。

 一人になろう。
 強くなろう。
 強くなって、もう一度一人でも寂しさに耐えられるようになったら、もう一度彼らと笑いあえるようになるかもしれない。
 今はただ、悲しくて悲しくて寂しくて、何も言葉にならなくて、喉のすごく奥が痙攣するようにひたすら涙が出た。彼らを失ってしまったことが悲しい。結局私は、彼らに対して「絶対」と呼べるような感情をなにひとつあげられなかったし、約束だって満足にしてあげられなかった。
 でも、彼らが大切な存在であって、確かに愛おしかったことは、絶対に嘘じゃない。

 私はのろのろと立ち上がって、玄関の鍵を閉めなおし、机の上の携帯電話を手にとって開いた。
 さよなら、画面が滲んで上手く見えない。
 阿部君の名前が、他ならぬ私の手によって消えていったとき、菊名先輩を失った悲しさも一緒くたになって押し寄せた。
 熱のあるからだ。
 もうすぐ冬がやってくるのだと知っていて泣いた。


2006/12/27
飴村