第二十三話 / 恋が死ぬプロセス


 雑誌の中はきらきらしていて、私の通う灰色の校舎なんて全然関係の無い世界みたいで。それでも、そのきらきらした瞬間をカメラに収めた場所は、地球の裏側でもなければ、電車に乗ってしまえばどう考えても数時間以内に着ける場所にある、はずだ。
 私の憧れた場所はもっと近かった。
 彼の隣。
 阿部先輩の腕の中。
 阿部先輩は、弓道部の先輩である滝本先輩のお友達で、テニス部の部長。成績優秀で、落ち着いた雰囲気はひとつ上の先輩達の中でも特に際立っていたと思う。顔がそこまでいいという風には思わなかったけれど、ふと見かけた一瞬の笑顔が、とても好きだと思ってしまった。所詮、恋に落ちる原因というのは、面白くないぐらいストレートだ。
 けれど、私の中で勝手に育ちつつあった恋心は、おそろしくあっさりと摘み取られた。
 滝本先輩に、彼女は居ないと言われて浮かれて、どう仲良くなろうかなんて考えていたら、図書館で阿部先輩を見かけて――優しそうな女の人に、優しそうに笑う、阿部先輩を見かけて。
 そんなに長い間見ていたわけではないけれど、それでもあんまり笑わないこと、たまの笑顔はすごく子供っぽいことは知っていた。でも、だったら何なんだろう、あの笑顔は。私はきっと、その呼び名を知っている。慈愛、羨望、欲情、幸福、庇護、陶酔、それから恋とか愛とかそういうものたち。すきなひと、いないって、そういう話だったんだけど。それとも勘違いじゃないの? ああ、それはない、か。
 一瞬の絶望と怒りに任せて、滝本先輩に詰めよった。『先輩の嘘つき! 阿部先輩、彼女居るじゃないですか!』って、今考えても馬鹿みたいな台詞だ。
 そして私には何も残らなくなってしまった。
 それは、軽い恋、だったかもしれない。文化祭で気分も盛り上がっていたし、クリスマスまでに、とか、ちょっと恋に恋をして浮かれていたと思う。それでも傷つくなというのは無理だと思った。

 恋を失った私が行きつく所と言えば、友達とのお喋り、カラオケ、スイーツ、買い物、ファッション雑誌、そういうところではなくて、悲しいかな部活だった。
 弓道というのは、失恋の悲しみを癒すためにあるスポーツではない、と心底思う。サッカーやバスケットみたいに思い切り走り回って、頭の中を空っぽにすることはできないし、いい汗をかく、ということもほぼない。ただ静かに番えて、引いて、狙って、放って。その集中の中で、色んなものが浮かんだり、または真っ白に消えたりする。波の様に、押し寄せて、返して。
 数時間もすると頭の中がだんだんぼんやりしてきて、私にとってはそれが心地よかった。
 今日も最後まで残った。掃除とか道具の手入れとか、理由をつけて。本当は、早く家に帰って、自分の部屋に一人ぼっちでいるのが嫌なだけだったけど。受験生だというのに「息抜き」と称して、滝本先輩が珍しく顔を出したけれど、その滝本先輩も数分前に帰って、弓道場は私だけになった。静かな暗さ、つめたい空気。
 携帯のディスプレイで現在時刻を確認して、私もいざ帰ろうと思った時、がらりと弓道場の扉が開いた音がした。

「あれ?」

 そして声が聞こえた。あ、うそ、何その冗談。
 声の方向がはっきりと私に定められる。

「あの、滝本来てなかったですか?」
「――滝本先輩なら、ちょっと前に出ましたけど」

 遠くから見てただけなのに、声で誰だか判別できるって、私どれだけ気持ち悪いんだろ。ねえ、阿部先輩。
 その顔が少し歪んで、困ったような顔になって、彼がぼそぼそと低い声で呟いた独り言は、全部きれいには聞き取れなかった。忘れ物がどうとか、たぶんそんな話。
 今、目の前に居て、何事もなく失恋してしまった相手なのに、それでも予想以上に心臓が跳ねたものだから、喉がからからして、何か言い出したいのにまとまらなかった。

「そっか、ありがとう」

 短い思案を終えた阿部先輩が、帰ろうとする。それは駄目だ、理由も目的も何も思いつかないけれど、今このまま固まってしまうのはだめな気がす「阿部先輩!」

「え?」

 振り返った。

「あれ……俺の名前……え?」
「知ってます、あの、あのっ!」

 血流がどこかで遮られて、顔に集まっていくのが分かった。指や足先が、血液不足でどくどくしてる。

「私、先輩が滝本先輩と一緒に居るの見て……でも、たぶん先輩が、図書館で一緒に居た人のこと好きなんだって気付いて……でも、あー……その、」

 顔が真っ赤だ、泣きそう。

「好きに、なったんです。ごめんなさい」

 思わず深々と頭を下げてしまったら、今度は上げられなくなった。
 目が一気に潤んだけど、涙は出てこない。頬が熱くて、体中の水分のめぐりが良くて、先に鼻水が出て来そうだなんて、妙に現実的でシュールなことを思った。余裕なんて無いくせに。
 夜の弓道場は、きらきらしたライトにこれでもかと照らされて、俯いているくせにオレンジ色みたいに眩しい。そして沈黙、長い、長い。
 困ったような声が、小さく阿部先輩の方から聞こえてきた。

「そのさ……まずは顔を上げようよ」

 そう言われて、おずおずと顔を上げる。あ、困った顔してる。ほんの少し嬉しくて、でもとても、困った顔。

「名前を聞いてもいい?」
「あ、2年の伊藤まどかです」
「伊藤さん、」

 確かめるように呟かれた自分の名前に、また少し、頬が熱くなった。結末が分かっていたとしても、それでも、仕方なかった。

「そう言ってもらえて嬉しい。だけど、伊藤さんが言うとおり、俺はその人のことが好きだから、応えられない。ごめん」

 期待をもたせない、はっきりとした言葉。イメージ通りだ、嫌になるぐらい。ふわふわしてて、熱っぽくて、漂うような空気のクラスメイトたち。一つ年上の、きちんと地面に足跡をつけて歩くような、阿部先輩。
 稚拙な恋心、憧れともつかない。それでも、

「――先輩らしく、ない、ですね」
「え?」

 傷つくというより先に、そんな言葉が零れてびっくりした。お互いに。

「どういうこと?」
「え、いや、あの……先輩は優しそうだから、私のことを振るのに申し分けなさそうな態度をとるのは、分かるんです。でも、さっきのはなんか、悲しそうだったから」
「悲しそう?」
「なんで、彼女のことを好きだって言う時に、悲しそうな顔するんですか」

 言葉だけはっきりしているのに、そんな態度なんて。今更、期待しようなんて、そこまで図々しいことは考えて居なかったけれど、曖昧な態度で断られるのは嫌だった。見ているだけの幻想で作った阿部先輩の、くっきりとしたイメージを汚さないでほしかった。綺麗なままの片思いでとっておきたかった、のに。
 それでも、私の言葉にショックを受けたような阿部先輩を見ていると、自分が言葉を間違えてしまったような罪悪感が込み上げる。なんで、どうして?

「――彼女じゃないんだ」

 ぽつりと、悲しい声で。

「確かに俺は、あの人のことが好きだけど、でも付き合ってるわけじゃない」
「そんな、嘘ですよ」
「嘘じゃない」
「私、図書館で先輩達を見ましたけど、あれが付き合ってないなんて嘘です!」

 なんとなく、仏頂面のイメージのある先輩が、彼女だけに緩めた表情筋の一片。それだけで、もう駄目だと分かった。優しそうなその人が、柔かい視線で、目の前の問題集に集中する阿部先輩を、時々そっと見つめている。それを見て、私にはそんな目ができないと思った。阿部先輩は、そんな目をする人を好きになったのに。
 今現在、付き合っていなくても、もう未来なんて決まってる。悲しい顔なんてしないで、つけこませないで、全く他意のない、残酷なのろけみたい。

「伊藤さん、それは、どれぐらい前の話?」
「たぶん、一ヶ月ぐらい前です」
「一ヶ月は、何かが変化するには充分な時間だろ?」
「……別れたんですか?」
「元々、付き合ってると呼べもしない関係だったけどね」

 自分自身を蔑むように――こういう場合は嘲笑と呼ぶべきだろう、先輩がわらった。
 あの幸福そうな二人の間に、何が起きたんだろう。なんでこの優しい人が切り離されてしまったんだろう。どうして。
 私の戸惑いを察知するように、阿部先輩が作り笑いでフォローしてくれた。惨めだと自覚している人の作り笑いだ。

「阿部先輩、私、先輩が好きです」
「――うん、ありがとう」
「だから、他の人よりは少しだけ、先輩のこと見てたつもりです。あんまり期間は長くないですけど……それでも、女の子の勘って結構あなどれないんですよ」

 何でこんなこと喋ってるんだろう、という自覚はあった。でも好きな人の悲しい顔を見たくないなんて、恋と言うより愛かもしれないと、過大評価してしまいそうになる。

「あの人は、先輩のこと好きでした。一ヶ月前の話でも、それでも、あの時確かに、あの人は阿部先輩が好きなんだって、私はそう思ったんです。そう見えたんです」

 変なの、だって私が振られてるんだから、慰められるのって私のはずなのに。阿部先輩が、手負いのライオンみたいな顔をして私を見るからだ。泣いてないはずなのに、泣かないでって言いたくなるような顔をしている、阿部先輩の方が悪いんだ。
 阿部先輩が私を見て、そしてためらった後、こんなことを聞いてきた。

「変な話だけど、伊藤さんは、好きな人を傷つけたいと思うことってある?」
「――今、先輩が傷ついた顔をしているのは、嫌でしたから、たぶん、自分でも傷つけたいとは思わないと思います」
「そっ、か」
「阿部先輩は、傷つけたいんですか?」
「分からない」

 だって、私は阿部先輩と愛し合っているわけじゃないから、傷つけたい気持ちってものは、片想いのものとは違うのかもしれない。そうしたら、私には分からない。阿部先輩に分からないように。

 空が暗くなって、私達はそれぞれの家路についた。最後に、先輩の放った「ありがとう」の響きは、告白に対するものではないような感じがして、少しくすぐったい。悲しいけど、悲しくなかった。それは、惨めかもしれないし、いいことかもしれない。分からない。

「もー全然駄目。先輩彼女いたんだもん。滝本先輩も恋バナじゃアテにならないし。てか修二が阿部先輩と同じ部活なんだからもっとちゃんと情報教えてくれればさー…」

 クラスメイトの男相手に、笑い話にした時、阿部先輩は彼女を傷つけたのか少し気になった。その時、私の恋が死んでいたことに気付いた。
 爪きりでぱちんと切り離されて、どこかに飛んでしまった爪の欠片ぐらい、あっけない恋だったかもしれないけど、私はそれを飲み込んで成長している、確かに。そう信じる。


2008/09/11
飴村