第二十二話 / 裸の王様と狼少年
この華やかな空気も、意味もわからない陽気な曲も。この季節に街を彩るこのクリスマスの賑わいが俺は嫌いだ。
その根本にあるものや、歴史とか宗教そのものを理解しようとはせずに、ただシャンパンを開けて、信じてもいないしどうでもいいと思っている宗教の誰かの誕生日を理由に奇跡を期待したり、愛を語ってみたり。
そして少しでもそれに背こうとする人間を見つけると、全力で否定しにかかるわけだ。
そのときの言い分はこうだ。
まだ子供だから。いずれきっとそんなときが。ひがんでいるんでしょ?
本当に、自称「自分達を代表とするマジョリティーの思う幸せ」を全員の幸せにしようというその優しさ教の布教活動になると、マイノリティーを責める理屈に困るということはないらしい。
その心意気は尊敬に値するかもしれない。俺はやだけど。
けどまぁ、信じてもいないことを当然のように語るのは、何も三週間後に迫った甘ったるいキリスト誕生の祭典に限ったことじゃない。
「平野、おまえはホームルームが終わったら進路指導室に来るように」
柴田が教卓の向こうで声高に死刑宣告をする。
「アチャー、修二何しちゃったの」
「……わかんね」
完全に話題を楽しむような顔で後ろから身体を乗り出してきた光の顔を押しやって、折りたたんだ携帯を開く。ポチポチと細かいボタンをいくつか押して、新規メールを作成する。懲りずに肩越しから光が覗き込んで、ご丁寧にそれを音読する。
「わ、るい、……おくれ、……る? 誰にメール?」
「高倉。部活今日ミーティングだし」
「ふーん、テニス部今日は休みか。いーな、俺ら今日は外だぜ」
「サッカー部が外出ないで何すんだよ」
確かに、と言って光が笑う。
その光に何故か進路指導室の入口まで見送られて、俺はいつの間にかコーヒーまで入れて俺の成績表を広げている柴田と二者面談していた。
「座れ平野」
指差された椅子に腰を下ろすと、僅かに香る煙草の臭いに顔を顰めた。
ホームルームが終わってから俺がここにくるまでの僅か数分の間にコーヒーを入れて一服までしてきたのか。すごいというかなんと言うか。
「白紙で提出したのはおまえだけだぞ、平野」
差し出された自分の名前と出席番号の記入された進路希望用紙を、何処か憮然とした思いで見下ろした。先々週渡されて、先週提出した奴だ。確か。
「はあ……」
それ以外に言葉が出なくて、でもその返事とは呼べない返事に、どうやら机を挟んで正面に座った担任は、苛立ったようだった。
「真面目に考えているのか?」
「俺まだ十六なんです」
「十七だろ」
「早生まれなんで、まだ十六です」
つまらないことで言い合っても、互いの望んだ結論なんて出ないとわかっている。
柴田がため息をついた。やれやれとでも言いそうだ。勘弁していただきたい。けれど、とりあえず俺も柴田も、それが続けたい話題でないことだけは確かだった。
「で、これはどういうことだ?」
「そういうことです」
可愛げの無い生徒だと思われても構わなかった。というか、今更だろう。もう十二月も半ば。なんだかんだで、この男が担任になってからもう八ヶ月も経つわけだし。扱いにくい生徒だということは、多分随分昔に柴田の方も知っているだろう。
残念ながら、生徒の方も、教師が自分を好いているかどうかの判断くらいは出来るものだ。
学校生活なんて、自分に割り当てられた役割をいかに上手く演じるかということに終始している。そして、自身が上手く演じられているかどうかは周りの人間との距離を測りながら行うものなのだから、相手の一挙一動から自分に対する評価を読み取ることにかけては、高校生以上に上手いものはそういないと俺は思っている。
だから、柴田のこの反応や態度は、柴田の俺に対する評価を測るには充分だった。
「平野」
ほらきた。
俺が教員という輩が嫌いな理由だ。
わざとらしい大きなため息のあと、ずいと上半身を乗り出して、多分これは「真面目に真摯に聞く姿勢」という奴だ。
俺はおまえのためを思って。このままでは困るのはおまえなんだから。
「おまえはもう十七だろう」
「だから十六です」
まさかそこに戻るとは思っていなかったけれども、それでも究極的にこの男が言いたいことはわかっていた。多分二人ともわかっていた。
わかっていたから、柴田の呆れ顔から目を逸らして言葉を続けた。
「わかんないんです」
「平野、」
目の前に座る三十一歳の男の声のトーンが、嗜めるような響きを帯びた。
ほら。甘い嘘の蜜で塗り固められた「幸せ」の色をした強制だ。
「これでも遅いくらいなんだ。やりたいことの一つや二つ、あるだろう?」
例えば、成績表に記入された数字から、この人は一体俺をどういう人間だと理解するのだろう。可もなく不可もなし、と自分でも思うような成績に、今更どうコメントつけようというのか。
俺は担任の顔をにらみつけた。凡庸な顔。これと言って特徴づけるところのある顔でもないし、じゃあ中身の方はどうなのかと問われても、それも強いてあげるほどのものは思いつかない。
そんなこいつが、一体何を根拠に、何を理由に、俺に俺の将来の話を説くというのだろうか。俺たちの中に、何かあるはずだって、そうやって強要して、探させて、じゃあこの男は、こいつは、そうして自分の中に何か見つけることが出来たのだろうか。そして、それがこの職業だというのだろうか。本当に? じゃあ、何かあるっていうものの何かって、その程度のものなのか?
そもそも、俺、まだ十六だぜ? まだそれしか生きていないっていうのに、その先の永遠のような時間の生き方を今、決めろだなんて。それこそ無理な相談というやつではないのか。
「共通」の強要。
認めろ、認めろ。探せ、探せ。ないはずはない。思わないはずはない。羨まないはずはない。欲しくないはずはない。
だって皆、そうなのだから。
いいや。
だって自分が、そうなのだから。
「――もう少し、考えてみます」
失礼します、と言って出た進路指導室。
閉じるドアの向こうで、柴田が小さくため息を漏らしたのが見えた。
聞けるはずない。聞いていいわけない。本当に見つかるんですか? 本当にあるんですか? やりたいことなんて。先生は見つけたんですか?
尋ねるまいと決めて、口を閉じた。
なんだこれ。まるで見て見ないふりみたいだ。
寒いと、あたたかいものが恋しくなる。
それは例えば、学校と駅との間にあって、色気のない蛍光灯の光を発している自動販売機の缶コーヒーとか。肌触りのいいけれど、高校生が自分の金を叩いて買うにはちょっと高めのブランドものの100%カシミヤで出来たマフラーとか。はにかんだ笑顔で、恥ずかしそうに握り返してくれる、大好きな誰かの指先とか。色んなものだったりするわけだけど。
そういうものが、恋しくなる。寒いと。
人肌の恋しい季節っていう表現が、よく解らないでいた。だけど、それは一度知ったら絶対に忘れられない温度だった。心地よい。気持ちよい。溶け合って癖になってしまうような温度。
繋がりあわなくても、腕の中に抱きしめてあるだけで、永遠に心地よい熱を発し続ける温婆子みたいなもので。
だからまぁ、要するにそういうのと同じような欲求の延長線上にあるものなのだと思ったわけだ、俺は。知ってしまって、それの在ることの快楽を覚えてしまうと、容易くそれが必要なものになってしまうように。
それを自身が身を持って知るより前に、必要なんだという風に教えられて育てられ、染められたら、それは在るものに、在るべきものに、在ってしかるべきものに変わりはしないだろうか?
「あ、修二。呼び出し終わったんだ?」
鞄とコートを取りに戻った教室の後ろのドアを開けると、ちょうどドアのすぐ隣の席に座っていた伊藤がにんまりと笑って顔をあげた。
「まぁ、何とか」
「らしくないね、修二が呼び出されるなんて。光ならわからなくもないけど」
「生活指導じゃねぇよ。進路決めろってさ」
「え、何、決まってなかったの?」
さもあって当然というような口調に、ほんの少しムッとした。
「悪いかよ」
「悪くはないけど……」
言葉を選ぶというより、探すようにして伊藤は視線を泳がせた。
「何か、やっぱりらしくないような気がして。修二ってもっときちんとした目標みたいなの持ってるんだと思ってたから、なんとなく」
何かとか、なんとなくとか、随分適当な言葉。
自分にあるはずだと信じて、他人にもあるはずだと信じて。
「……ふーん。ご期待に添えなくて悪いねぇ」
「思ってもいないくせに」
そういうところは見抜くくせに。
ふと視線を落とすと、伊藤の机の上にクリスマス特集と称したキラキラと眩しい見開きページが目に入った。
「クリスマスプレゼント選び?」
「ううん、相手もいないのに選んだって仕方ないし。限定化粧品とか、色々チェックしているの。ケーキとかも。修二はクリスマスまでに彼女つくる予定は?」
「さぁ……何かどうでもいい」
「夢のない男だね。好きな子とかいないの?」
ちらりと見た伊藤の目には、好奇以外の感情はない。
まったく、ついこの間まで失恋してへこんでいた人間とは思えない。
「……そういうおまえは? この間まで阿部先輩にお熱だったじゃん。諦めたの?」
伊藤は肩をすくめて笑った。
「もー全然駄目。先輩彼女いたんだもん。滝本先輩も恋バナじゃアテにならないし。てか修二が阿部先輩と同じ部活なんだからもっとちゃんと情報教えてくれればさー……」
「無理。阿部先輩にそんなこと聞けねー」
仲悪いの? という問いに、別に、と答えながら、雑誌の派手な見出しを見るともなしに見ていた。何でそもそもこんなに盛り上がっているのかすらよくわからない。
興味をなくしたらしく、片手でポッキーを口に運びながら、伊藤のもう片方の手は携帯のボタンを忙しく押している。
ついこの間までだいぶへこんでいたと思ったら、今はこうして元気だ。恋愛に関して、女の子のパワーとやらは凄い。俺の何処を探しても、そんなものは見つからないだろうと思う。
『これでも遅いくらいなんだ。やりたいことの一つや二つ、あるだろう?』
遅いってどういうことだよ。今出てこなければ、一生出てこないのか? 何もなくちゃ駄目なのかよ。可笑しいのかよ。
結局同じことだと思った。
皆が揃って、あるはずだあるはずだと、そう言って自分に呪文をかけて、相手に呪文をかけて、それがなくてはならないものなんだと言い聞かせているように。
見えるはず。見えないはずはない。王様は裸ではないんだと。
それはなくてはならないものなのだろうか。
それは本当に誰にでも存在するものなのだろうか。
だけど、自分の中を覗いて見てもそれはどうしても見つけられない。幽霊とかオバケとか、そういうのと一緒だ。この目で見ていないから、見つけ出せていないから、信じることが出来ない。たとえ自分以外の人間が口を揃えて在るのだと言おうとも。
「別に、いなくてもいいんじゃん」
俺としてはまったく飾らない本音だったのだけれども、彼女にはそうは聞こえないようだった。
携帯から上げられた視線が訝しむようにこっちを見ていた。何のこと? と視線が問いかけている。
「クリスマス一人だって、いいじゃん別に」
見つからなくたっていいじゃん。わからなくたっていいじゃん。
だってどうでもいいんだよ。だってわからないんだよ。掌を覗き込んでも、そこには何もないんだ。
「駄目だよ」
何がどう駄目なのか問い詰めたい気がしなくもなかったけれども、きっと無駄なことなのだろうと思った。俺はそれを自分の中で見つけ出せない限り信じられないのだし、信じられない人間に向って信じている人間がいくら言葉を尽くそうと、その効果は高が知れている。
「どうでもいいし、やりたいこともねーし」
ゆっくりと嘘を刷り込んで、そうすれば、それが当たり前になって、いつかそれを信じることが出来るようになるのだろうか。
もしそうなら、是非上手くやってほしいものだ。華やいだ気分になれるのなら、それも悪くはないと思うのだけれども、信じきれないのだから、仕方ないじゃないか。
例年に比べて暖かいとか、暖冬だ暖冬だと言うけれど、来年になれば今年の冬も、例年の冬に紛れてしまうみたいに。
望んだところで、それが手に入らないのならば。望むことに意味はあるのだろうか。
「何それ」
ぽつりと零した言葉に、伊藤の声が笑うように軽くなった。
「結局あるんじゃん」
「……そりゃあ、ないよりは、あった方がいいなとは思うけど」
それは本当だった。
楽しめるのなら、それで頑張れるのなら、あって悪いことなんてない。
「よくわかんないけど、修二は潔癖症なんじゃん?」
「……潔癖症、ね」
伊藤の言ったその言葉が果たして俺を正確に表しているかどうかはわからなかったけれども。
じゃあ俺は、王様が裸に見えてしまっていて、でも皆が言う何か素晴らしい衣装を着込んでいるのだと思いたいわけか?
そりゃあそうかもしれない。皆が見える中、自分一人が何も見えなければ、誰だって一度は自分の目が可笑しいんじゃないかと疑ってしまうものだろう。
――じゃあなんだ、やっぱり俺はそう信じ込みたいんじゃないか。
馬鹿馬鹿しい。ありもしないものをあると妄信的に信じ込むことがそれならば、俺は一生誰も信じない嘘を訴え続ける方で構わない。
「……俺部活行くわ」
「そっか。いってらっしゃい」
相変わらずポッキーを食べながら伊藤がひらひらと手を振った。
「おまえは? 弓道部行かなくていいのか?」
「今日は休み。女テニも今日ミーティングなんだって。真弓待ちなんだ。見かけたら教室にいるって言っておいてくれる?」
「メールしろよ」
「念のため。いいじゃん、伝言くらい」
返事の代わりにため息を一つ零して、2-Fの教室を後にした。
2007/04/13
工藤