第三話 / 手札代わり
残暑御見舞い申し上げます。
白いはがきに、水色でいくつかの輪が描かれていて、その下には赤い金魚が泳いでいる。黒い字で、ありきたりの季節の挨拶が書かれてあって、差出人の名前はなかったけれども、誰からか、予測はついた。
それが、返信のないメール対する彼女の答えなんだと。
その挨拶の文句の文字二文字に、ふと疑問が脳裏を掠めた。残暑……それって、いつまでの暑さをいうのだろうか。残暑御見舞い申し上げます……いつまで使っていい挨拶だっけか。はて。
手元の電子辞書の広辞苑を開いて、ボタンをたたいた。秋になっても残る暑さをいうのだから、秋でも暑い間は使っていいってことになるのか。
開いた電子辞書の広辞苑を閉じて、ため息をつく。
今時残暑見舞いなどを律儀に送る人間が残っていたとは。
葉書を裏返せば、やっぱり丁寧な字で、木嶋京平様と書かれてある。
彼女はどんな気持ちでこれを書いたのやら。同じ年代の女の字は、皆丸みを帯びて子供っぽいのに比べて、彼女は字までもが自身が大人であることを現しているかのようだった。それとも、考えすぎだろうか。
ちなみに電子辞書の隣には、未だ手付かずの数学と現代文、それに古典のプリントが山積みであるわけで。
つーか宿題終わんねーなぁ……。
ゴミ箱に向けて投げた白い官製葉書は、方向を大きく違えて、プリントの上に落ちた。
暫くそれを眺めていたけれども、それをもう一度拾い上げて捨てる気にはなれなかった。
気付かずにそのまま鞄に突っ込んで、学校で鞄からプリントを取り出すと、葉書が一緒に落ちた。
捨てるチャンスは幾らでもあったにも関わらず、捨てることが出来ないまま、こうして持ち歩いている。そして気がつくと、そればかり見ている。
「おい、京平」
「ぅあー?」
部活の休憩時間まで、そのことに思考が飛んでしまうなんて、自分でも相当キてると思うけれども。
見上げると、阿部が怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「練習再開すんぞ。ダラダラしてんな」
手にしていたアクエリアスの500mlペットボトルを投げて寄越す。
「……ハーイ」
見上げた空はムカつくほど真っ青で、太陽はギラギラと輝いていた。
おいおい、地球温暖化はマジかよ。何で夏が暑くなるだけで、冬は暖かくならないんだ? 何つー効率の悪い。
熱気が気だるさを増長する。
ペットボトルの中に残っていたアクエリアスを流し込むけれども、涼しくなるのは一瞬で、熱はゆっくり外側から体中を侵食していく。
薄いTシャツは汗が染み込んで重い。
立ち上がって、太陽の下にでると、熱が増したような気がする。今度は侵食じゃなくて、熱が表面を焼くように感じる。
視線だけ動かして、休憩前まで打ち合っていた相手を探すけれども、見当たらない。
「え。てゆーか相手がいないんですけど。おい、高倉! 鳴海は何処行った?」
ラケットを腕の脇にもって、しゃがみ込んで靴紐を結んでいた高倉に声をかける。
「休憩前はいましたよ」
「知ってるよ。今いないんじゃん。女か?」
「……木嶋先輩」
あからさまな非難の目でこちらを一瞥して、高倉は首を振った。長い前髪がそれにあわせて、揺れる。
「欲求不満かなんかですか」
「総体終っても顔を出して後輩共を鍛えてやってる心が海の如く広い先輩に向かって言うことか?」
「最近別れたってきいたもんで」
「どうしてそういう噂は広まるのが早いかね」
長めの前髪の下から、何処か話題を楽しむ風な目が覗いている。揶揄のような。非難のような。けれどもただ、楽しんでいるようにも見える。
こいつ、結局これが聞きたかっただけか?
あの葉書が脳裏を過ぎる。
「ゴシップ好きだからっすよ」
「人の不幸をならば特にね」
「嫌味ですか?」
ほんの悪戯心から、そのメールに返信しないでいてみたら、一日が二日に、二日が三日。そして一週間になった。
そして夏休の終わりに一枚、葉書が届いた。葉書には何かを読み取れるような言葉なくて。
終わったのだろうか? 矢張り。
高倉が、ラケットを片手にストレッチをしながら、こちらを伺っている。答えが欲しいのだろう。
「かもな。……で、鳴海は何処よ」
「俺は諒の保護者じゃないっす……あ、いた。諒! こっち!」
校舎のほうから現れた人影を見つけて、高倉が手を振った。
アディダスのジャージに、学校指定のTシャツを着た鳴海が、駆け足で向かってきていた。
「遅ぇよ鳴海!」
「すみません、木嶋さん」
「女か?」
「……はい?」
「おまえが時間守んないなんて珍しいと思って。おかげで高倉に侮辱されたし」
背後で高倉が苦笑する気配がしたけれども、振り返らなかった。失礼な後輩だこと。
鳴海が理解できないという風に首をかしげた。
「明奈ちゃん? だっけか」
「それなりにやってますよ」
「羨ましい限りだな」
「木嶋さんだって、年上の彼女いるじゃないすか」
「過去形だけどな」
「……別れたんですか?」
「うぅーん……微妙」
彼女の中では確実に終わっていることなのだろう。けれども、俺の中でその答えはまだ出ていなくて。契約続行を心のどこかで望んでいるのだけれども、もしかしたら彼女はその書類そのものをとうに焼いてしまっているのかもしれない。
「難しいもんですね」
「お、意味深。何か思うところでも?」
「まぁ……何か、気味が悪くて」
そう言って、苦笑した鳴海は、何処か憔悴したふうにも見えた。珍しい。
白いシャツの上に、銀色の指輪が光ってた。
太陽の光が反射して、それが目に沁みる。
ペアリング、か。
「は? 何ソレ。彼女が?」
「いいえ、そうじゃなくて。何か、生理的に関わりたくない人間に関わってしまったというか……見ちゃいけないものを見た感じに似てます」
「ほほう。で、指輪は何か関係ある?」
指を指すと、鳴海は慌てて指輪をTシャツの下に仕舞いこんだ。その様子が可笑しくて、苦笑が漏れた。関係ありませんよ、直接的には、多分。とぼそぼそと呟いた。
「何かいいな。ペアリングとかって」
思い返せば、彼女は自分にそんな共通のものをくれたこともなかった。
連絡だって、基本的に彼女の都合で。こちらから会いたいとメールを送っても、数時間後にごくごく短い返信があるだけだった。
「生意気に聞こえたらあれですけど、ただ恥ずかしいだけですよ」
「んー……まぁそうなのかもしれねーけどさ。それ、おまえからの提案じゃないだろ?」
「そうですけど…わかります?」
「高倉ならそういうことやってそうなイメージあるけど、鳴海はなんか違うと思ってさ」
だから、羨ましいと思う。
その言葉は飲み込んだ。
「……どうして、」
ぼそりと、鳴海が言った。
ん? と顔をあげると、鳴海の視線が言葉を捜すように彷徨った。
「欲しいんでしょうかね、おそろいの何かなんて」
「……さぁ。マーキングみたいなものなんじゃねーのかな」
自分の所有物だと印をつけるその行為が酷く眩しかった。子供っぽい独占欲なのかもしれないけれども。
彼女は行為の最中も、キスマークはつけさせてくれなかったし、つけてもくれなかった。
せめてひと時でも、俺のものだっという証が欲しかった。それとも自分のものだとなど思っていたのは、俺だけだったのだろうか。
いつだって主導権を握っているのは彼女のほうで、俺ばかり溺れていたようにも感じる。
だからそれはささやかな復讐だった。彼女が自分に夢中になればよいと、そう思った。そう思って、彼女のメールに返信しないでいた。
返信のない不安に振り回されてみればよいと思った。何かあったのだろうか。それとも嫌われたのだろうか。そんな問答を一人でしてみればよいと、期待した。
けれども連絡はそれっきりになってしまった。
思い出したように、ポストに残暑見舞いが入っていて、それで彼女の関係は多分終わった。そして俺はその葉書を捨てることも出来ないまま。
ゴミ箱に向かって投げても、それが入るはずないとわかっていて。
彼女ばかりが簡単にすべてを切り捨てることが出来るという事実が悔しかった。だからせめて、葉書一枚くらいと思ったのに。結局それすらも捨てられないということを理解しながら、捨てるという行為を演じてみただけであって。だから今も鞄の中に眠っている。
「マーキング……ですか。……俺はなんだか、首輪されてる犬の気分ですよ」
「俺は支配されたかったよ」
俺の台詞に顔を上げた鳴海は、珍獣でも見たような顔をしていた。
別に俺だけのものになってくれとは言わない。言わなかった。たった一度も。俺が彼女の一番ではないことは知っていて、それを承知で付き合わないかと提案したのは俺だったから。
けれども俺は、彼女のものだった。何の疑いもなく、そう思っていた。
けれども彼女は、俺を彼女のものとは思ってはいなかった。彼女にとって俺は、必要なカードではなかったわけで。エースでもキングでも、クイーンやジャックですらない。
「京平! 鳴海! だべってないで練習しろ!」
鳴海の肩の向こうから、隣のコートで一年生を指導していた阿部が怒鳴る。
「了解部長ー」
「……やりますか。よろしくお願いします、木嶋さん」
「おーう。よろしく、鳴海」
セカンドはセカンドらしく、彼女にとって都合のいい存在であり続けることが出来ないなら、捨てられるのはわかりきっていたことなのに。
見返りを求めてはならない。期待してはならない。
彼女が最初に言ったことじゃないか。
私は、京平くんが私のことを好きなように京平くんを好きではないよ、と。
その気持ちを利用して、使うだけだよ、と。
京平くんが期待しているようなものは何もあげられないよ、と。
それでも良いと、思っていたのに。
「じゃいきますよ」
「おう、こい!」
鳴海が大きく振りかぶる。
いつか、代えられないカードになれればと。そんな浅はかな願望で、すべては終わった。
2006/03/12
工藤