第四話 / 大きく手を振って、さよなら


 里佳は何でも奪っていった。これが姉なのかと思うと、いつだってじりじりとした痛みが走る。
 妹の私が平々凡々であるのに対して、里佳は大概のことに対して平均以上の評価を得ていた。容姿も、成績も、人付き合いも。そこまでならまだ許せた。劣等感はいつまでも拭えなかったけれど、そこそこ折り合いをつけてゆくことが出来る。
 もう両親の評価なんてどうでもいい。別の高校を選んでからは、残された名前に惑わされることもなかった。里佳は大学進学以来、帰宅時間がよくずれこむようになったから、顔を合わせることもあまりなかった。
 もう、この姉は、私から何かを奪うことはないはずだ。
 そう思っていた矢先、私は、最大のものを奪われたのだ。

「俺、里佳さんのこと好きかも」

 京平――私と付き合い始めて半年が経とうとしていた彼氏は、ぽつりとそう呟いた。
 何度も前を通り過ぎたくせに一度も入ったことのなかった喫茶店で、私はカフェラテを、彼はアメリカンコーヒーを飲んでいた。午後四時過ぎのことだ。
 自分の目が見開かれるのを感じながら、私は京平を見つめた。その視線を受けて、居心地悪そうに彼は言う。

「悪い、やっぱ嘘つけるような場面じゃねーんだよ」
「……何ソレ」
「さくらだって知ってんだろ? 俺が里佳さんとメールしてることぐらい」
「知ってるよ。でも……!」

 安心だと思っていた。京平はいつでもフラフラしている奴だけど、そのぶん面倒な相手には手を出さない。だから、よっつも年上で、おまけに仲のよい彼氏までいる姉は、私から彼を奪うことなんでできなかったはずなのだ。
 よっぽど私は傷ついた顔をしていたらしくて、京平はバツが悪そうに視線を逸らした。

「さくらのことは、今でも好きだよ。でも、もう俺、さくらのこと友達みたいにしか見れねーんだ。最近の俺が変だったことぐらい、多少は気付いてただろ?」
「気付いてたよ。でも……」

 入学してすぐ一目惚れして、頑張って、思い切ってした告白にオーケーが出たとき、私はうっかり神様の存在を信じそうになった。有頂天で、幸せで、ハマりにハマった。
 京平は私を束縛しなかった。でも京平は浮気なんてしなかった、きっと。呼べば応えてくれる。求めれば与えてくれる。シニカルな笑み、喧嘩のない毎日、なんて素敵なパートナー。
 ああ、でも、京平が私を心の底から呼んだことなんて、一度だってあったっけ?
 浮かんだ答えは、私の胸に重く圧し掛かった。
 もうカフェラテなんて飲んでいられなかったけれど、生暖かいカップを放すことはできなかった。

「なんで、里佳なの?」
「……分かんねーよ」

 元からメールを頻繁にくれるタイプではなかったけれど、最近は本当に、一通もくれなかった。学校で会えば笑顔で相手をしてくれたけど、前みたいに心から笑ってはくれなかった。デートもあまりしてくれなかった。でもあれは、部活が忙しいからだって、京平が、京平が言ったのに。
 無意識のうちに蓋をしていた事実は、今の状況にあまりにもストレートすぎる。
 久々のデートのお誘いだからって、張り切った自分が馬鹿みたいだ。めったに履かないティアードスカートを握る左手に、自然と力がこもる。
 ほんと、馬鹿みたい。

「だって、里佳、彼氏居るんだよ?」
「知ってる」
「きっと望みないよ? 私、あの二人が喧嘩してるのなんて見たこと無いし」
「関係ねーんだって、そんなの」
「だって、京平――」

 喉の奥が、全身の震えが、行かないでって叫びたがっていた。でも叫べない。叫び方が分からないのではなくて、私はその後の結末を知っている。
 束縛とか、執着とか、そんなものの強い女が、京平は嫌いだ。私が怒ったり泣いたりわめいたりすれば、その分だけ京平の心は冷めてしまう。分かっている。この場で感情的になるのは得策ではない。
 でも、だったら何をすればいいのか、それは分からなかった。

 京平は黙りこくったまま、私の手元を見つめている。ちらりと彼の表情を伺えば、申し訳なさとかそんなものよりも、はっきりとした覚悟のようなものが浮かんでいて、それはますます私を絶望させた。
 翻る気なんて無いんだ。私がどれほど手段や言葉を尽くしても、彼は最初から何一つ受け入れない気なんだ。

「――ねえ、里佳はまだ何も知らないんだよね」
「……だな」
「里佳はね、他人から見たらすごく冷たくて、合理的で、しゃんと背筋を伸ばしてるってイメージがあるけど、ほんとはそうじゃないよ」
「だから?」
「京平は、そんなに里佳のこと知らないじゃない」
「そうだよ」

 翻らないと分かっているのに。それでも私は執着してしまった。
 知ってるよ。
 醜いよ。
 ――だって、どんなに頑張ったって、私は里佳すら超えられないじゃないか。

 静かにかみ締めた下唇からは、当然、鉄の味も何もしなくて、鈍い痛みすらなくて、その空虚さに呆然とする。ほんとうに、目の前のひとを失ってしまったら、私には何も残らないんだ、という実感。

「ずるい」

 うつむいた唇から流れ落ちたのはそんな言葉だった。
 醜い。

「京平が何言いたいのか分かんない。さっきから、肝心なこと全然言わないでさ。そういうトコ嫌い」
「悪ぃ」
「何がよ」

 京平の表情に、申し訳なさが僅かに戻る。
 ほんの少し切なげに寄せられた眉根だとか、伏せ加減になった睫毛とか。そんなものを見ていると、私自身がどれくらい彼のことを好きで、どれくらい離れるのを悲しんでいるのか、というのがふつふつと浮かんできた。体の内側にぶつかって、痛みだけ残して消える。

 私はまだ京平のこと好きなんだよ。
 好きだよ。
 置いていかないで。
 私を好きだと言ったその口から、別の人の名前なんて出さないで。

 京平は意を決したように顔を上げて、静かに言った。

「さくら、俺、別れたい」

 じん、と奥が痺れた。
 泣くな、泣くな、泣くな。これ以上なく握りしめたティアードスカート。きっと皺になる。涙の跡なんてついたら、ものすごく惨めになる。
 じわりじわりと膜をはる瞳のむこうで、京平はやっぱりシリアスな顔してた。
 普段は軽くていい加減なくせに、ときどきそんな顔をする。思いがけないくらいロマンに溢れた、くだらない台詞を真剣に言うことがある。
 でもやっぱり、彼はそれを私に対しては言わないんだ。

「――やだって言ったら、どうするの?」
「言うのかよ」
「言いたいよ、すごく」

 カフェラテは冷め切って、もうカップを繰ることもやめた。
 熱が冷めたら、手を離さなくちゃいけない。次の、あたらしいものを見つけなくちゃいけない。きっと。

「ねえ、言い切ってよ。はっきりと言ってくれたら私だって動けるのに」
「は?」
「里佳が好きだから、誤解や邪魔されたくないから、もう私とは一緒に居たくないって。要らないから別れるって、言い切ってよ。私の意見なんて聞かなくていいから、断言してよ」
「何だよそれ。最初に言っただろ、さくらのことは今でも、友達として好きだって。要らないなんて一言も言ってねーだろ」
「だからそう言ってほしいんだって」
「訳わかんねぇ……」

 少しだけ覗いた怒気は、失望のようなものと交じり合って静かに沈みこんだ。
 そういう顔するのって、ずるい。

「何で分かんないの? 私は、京平に嫌いって言ってほしいんだって」
「嫌いなのに別れたくねーのかよ」
「違う、嫌われたら……そしたら、諦めつくでしょ。人のこと振っといて、お友達になりましょうって? 何ソレ。ほんと、冗談にもなんない」

 京平は卑怯だ。自分がそういったキャラクターであることを熟知した上で、意識的にふるまうことがある。けれども京平が京平である限り、それはとても自然で、許されてもいい事柄でもあった。
 でも、素の京平は、残酷なのだ。彼自身が気付かないくらい、すごく、残酷だ。

 振るなら徹底的に嫌わせればいい。ベクトルはもう次の人に向かってるのに、今までに得たものは失くしたくないからって、お友達? どれだけ私のことを傷つけてるか知ってるくせに、彼は何も分からずそんな台詞を口にするのだ。

「お願いだから嫌わせてよ。そんな簡単に切り替わるわけないでしょ。そんな状態で傍に置こうだなんて、残酷なことしないでよ。無茶言わないで」

 この願いを拒否するっていうのは、単にあなたが嫌われたくないっていう保身じゃないの?
 さすがにそれは声に出来なかったけれど、その前の台詞だけでも京平にとっては思ってもみなかったことらしくて、彼は動かなくなっていた。
 時々、思い出したように唇が動いて、それでも何も言葉にならなくて、そんな行為が数回繰り返された後、ようやく聞こえた。

「……友達には戻りたくねぇってこと?」
「そうだね……別れたくないっていうのと、同じくらい、そう思ってるよ」

 たとえば、今泣いていないのが奇跡的なくらい。
 それくらい好きで、離れたくないって私の主張、まったく受け入れもしない。
 そういえば、京平が何かをはっきりと求めたことはほとんどなかった。もしかしたら、今が初めてなのかもしれない。それは悲しすぎる。

「何で、別れたぐらいで何もかもリセットしなきゃいけねーんだよ」

 ぼそりと呟かれた一言は、明らかに不満を含んでいた。

「付き合う前は、俺ら友達やってただろ。何で戻るのより嫌うとか、そんなマイナスのことしたがんのか、全然分かんねぇ」
「それは――」

 京平が、私のことを本気で好きじゃなかったからだ。関係性を、友達同士にちょっと装飾がついたものみたいに見てたから、そんなに簡単に受け止められるんだ。
 悲しみと同時に怒りがこみあげる。でもどこにもぶつけられない、京平にすら。
 ずるくで、残酷。でも、どうしようもないことに、この上なく好きだった。胃の中がかき混ぜられるぐらい、彼が好きだった。

「――っいいよ、分かった、別れる。友達に戻る。それでいいよね?」
「んな投げやりな言い方すんなよ」
「……受け入れたくないからだよ。でも、しばらくはやっぱり、前みたいに簡単には友達って顔できない。それまで時間をくれる?」
「まあ、それぐらいならいくらでもいいけど」

 嫌わせてもくれない、最低、最悪。
 矛盾した感覚が吐き出されて、カフェラテが溢れてしまう前に。私がこの喫茶店で、大声あげて泣き喚いたり、京平の頬を思い切りぶったりする前に。

「ねえ、もう、下の名前呼ばないで」

 言うと、彼は苦い顔をして頷いた。

「――分かった」
「だから、最後に、もう一回だけ呼んでくれる?」

「さくら」

 いつかこの唇は、姉の名前を紡ぐのかもしれない。こみ上げた怒り、悲しみ、切なさ、愛しさ、絶望、苦しみ、諦め、たくさん。里佳も京平も、みんな、嫌いだ。大嫌いだ。
 溢れんばかりのそれら全て閉じ込めるようにして、私は瞳をとじた。


2006/03/14
飴村