第五話 / クッション


 たった4ヶ月程度しか顔を合わせる機会がなかったのだが、上村さくらという先輩がこのテニス部に居た。選手ではなかった。マネージャーだった。
 彼女は、俺が一年生の夏休み半ばに退部届けを出して、それっきりコートにすら近寄らなくなった。
 ほとんどのテニス部員は、原因を知っている。それはただの噂でしかなかったけれど、ずいぶんと信憑性のあるものだったことに変わりはない。同じくテニス部員だった木嶋先輩と、上村先輩が、別れたのだ。
 それから彼女は部活に来なくなった。俺らと同時に入部した一年生マネージャーは、唯一の先輩マネの突然の引退に大いに戸惑ったが、何もそれで全てがおしまいになるわけではない。他の誰にも代行のきかないマネージャーなんて育てても無意味なのだから。

 そうやって夏休みが過ぎてから二月も経たないとき、街中で上村先輩と遭遇するまでは、それはただの噂話でしかなかったはずなのだ。

 ともかく俺は10月の晴れた日に、偶然、上村先輩と出会った。たまたまお互いに一人で、昼飯がまだで、次の予定が曖昧だった。俺らはそんなに仲が悪いというわけでもないし、他人のゴシップ好きを自負する身分としては、木嶋先輩と彼女の仔細について、満たされきっていない興味が燻っていたわけで。
 当時付き合っていたクラスメイトとよく行くファーストフードで、今やほとんど無関係になってしまった先輩と向き合うというのは変な心地もした。
 木嶋先輩はテニスも上手いし顔もいい。勉強はどうだか知らないけれど、そんなに悪い成績だという話も聞かない。ということで、大雑把に言えばモテた。だから、こう言うのも何だが、木嶋先輩が上村先輩と付き合っているという話を聞いたとき、変な心地がしたもんだった。分かりやすく言えば、彼女は良くも悪くもないのだ。木嶋先輩なら、もう少し上のランクでもいいんじゃないか、もったいない、と思っていた。それは、自分には手に入れられないものを得ることのできそうな人間が、それをふいにしているということに対する苛立ちも含まれていたのだと思う。
 普段は部活用にひっつめていた髪を下ろして、柔らかそうな膝丈のスカートを穿いた彼女は、なるほど可愛らしく見えた。俺のするくだらない話でよく笑った。斜め横から当たる光の加減で頬がすっきりして見えて、もしかしたら少し痩せたのかもしれない、とコーラを啜りつつ思った。

 何で、木嶋先輩はこの人だったのだろう。
 指についたフライドポテトの塩を舐める姿がなんとなくエロいなぁと思いながらぼんやり見つめていると、顔を上げた彼女を目が合った。気まずくて目を逸らす。そんな俺をじーっと見つめていた彼女は、前触れもなく切り出した。

「何が聞きたいの?」

 今までの明るさは消えうせ、平面的になった声が、騒がしい店内で俺の耳だけに届く。

「いいんだよ、高倉君。さっきから何か言いたそうにしてるけど」
「え……っと、なんか変でしたか?」
「そわそわしてるよね。なんとなく予想はできるけど」

 あーあ、見抜かれてたか、という思いが作り笑顔の中に満ちた。
 自分でも、こういう演技は上手いと思っていただけに少しショックだ。こんな、ロクに話したこともないような人相手に。
 それでも笑顔がこわばらないように、頬に柔らかな力を込める。自分が今どんな顔をしているかなんて、鏡を見なくても分かった。

「いやー……たぶん予想通りだと思うんすけどね、やっぱりホラ、あれ以来ずっと気になってて」
「京平のこと?」
「まあ、そうっすね」

 彼女は指先を、備え付けのナプキンで綺麗に拭き取り、マニキュアを点検しながらそっと呟いた。

「ごめんね、部活やめちゃって」
「あ、いや、確かに一年マネは大変そうでしたけど、なんとかなってますよ。阿部先輩とかは、お前の所為だって京平先輩に怒鳴りまくってますけど、まあ自業自得なんじゃないすか」
「……なんで自業自得だと思うの?」

 視線はもうマニキュアの塗られた爪から外されている。射すくめられているのは他でもない俺だ。

「――京平先輩が原因で別れたんじゃないんすか」
「高倉君たちはどこまで知ってるの?」
「その、先輩らがもめて別れて、それから上村先輩が部活辞めたってぐらいですけど……」
「原因は知らないんでしょ?」
「京平先輩が自分で言ってたって噂ですよ、全部俺が悪かったんだから、アイツ――上村先輩は責めるなって」

 言い終えてから彼女を見ると、ぽっかりと見開かれた目が俺ではないどこかを見つめていた。口元にはっきりとした緊張が貼り付いている他に、なんと言えばいいのか分からない。
 驚きと、困惑と、あと何が混ざっているんだろう。

「そんなことを言ったの?」
「噂っすよ。俺は先輩から聞いただけです」
「誰から?」
「……その、阿部先輩から」

 案の定、彼女は黙った。阿部先輩の名前が出てきた時点で、その噂はほとんど100%真実だと証明されてしまったからだ。
 唇こそ噛んでいないにしろ、不自然に口元がこわばっている。それよりも気になったのは目だけれど。一瞬だけ、泣きそうに歪んで見えたから。

「――そっか、京平がそう言ったんだ」
「噂ですって」
「気休めはいい。京平、そんなこと言ったんだね……」

 静かに、首の傾く角度が変わってゆく。前髪が垂れて、表情が見えなくなった。そのまんま頭がぽとりと落ちるんじゃないかってぐらい、深く、深く。
 その沈黙に不安を覚えて、俺が声をかけようとするのとほぼ同時に、彼女はくぐもった声で言った。

「最低……」

 その台詞に、俺はいっそ動揺するより純粋に驚愕した。うつむいて、全く絶望したような声で、曲がりなりにも庇ってくれた元カレに対しての第一声が「最低……」とは思いもしなかったもので。
 もしも噂が本当で、彼女が木嶋先輩からこっぴどく振られたのだとすれば、まあ庇われたことに対して怒るのも当然かもしれない。

 俺はできるだけそぉっと彼女の顔を窺った。垂れた前髪の隙間から、鼻筋や唇の辺りがほんの少し見える。頬ははっきりと乾いていて、泣いていないのにほっとした。ここで泣かれては、俺が泣かせたと思われてしまう。この辺りには知り合いも多い。ただ一緒に昼飯を食べるぐらいならともかく、泣かせたとなるとなんと言い訳すればいいのか分からない。
 ――言い訳? ただ、ちょっと前までお世話になっていた先輩と、二人で飯を食うことに?
 思わず顔をしかめながら、気を紛らわそうと隠れて携帯のフリップを開いた。新着メールが二件。片方は諒からだ。でも、アイツが件名を何も入れていない時は、重要だったり急ぎだったりするわけではない用件だ。放置。
 問題はもう片方だった。送信者名の佐倉葉子という名前を見ただけで、嫌な予感がする。
『今どこ?』
 この上なく簡潔な題名と、真っ白な本文を見て、ため息をつきたくなった。受信したのは40分近く前のことだった。

 ふと顔を上げると、控えめな上村先輩の視線とかち合う。
 携帯のフリップを閉じた。気付かなかったことにしよう。後で何を言い出そうが、どうせいつものことだ。毎日教室で顔を合わせてるっていうのに、それ以上何を求めるって言うんだよ。

「ごめん、退屈でしょ」
「いや、全然そんなことないですよ」
「でも、携帯見てた」
「……っその、上村先輩、泣いてんのかなって思ったら、見るのも悪い気がして」

 上村先輩は、ほんの少し疲れたような顔で、そっと微笑った。今までに見たことのないような種類の笑顔だった。

「高倉君もズルい人なんだね」
「は?」
「泣いてないって知ってて、そういうこと言うのは、ズルい人なんだよ」

 優しく微笑っていた。でも全く笑っていなかった。
 そういえば、木嶋先輩の隣に居たこの人は、いつでも真摯で、いつでも陽気で、偽りも誤魔化しも知らないような顔をして笑っていたっけ。少なくとも、こんなにも無茶な笑い方をする人ではなかったはずだけどなぁ。
 無意味に思い出したことが、なんとなく痛かった。
 自分自身が誰かに同情できるということを、数年ぶりに思い出したみたいに。

「――ずるいっすか?」
「京平もそんなのだった」
「あっちゃー、それは最悪っすね」
「最悪の最低だね」

 どこかで聞いたような台詞を言って、彼女は笑った。今度は、今度こそ、無邪気に笑った。
 その顔を見て思う。彼女は「こう」でなくてはいけない。それが一個人の身勝手な我儘だとしても、生まれてしまった感情なのだからしかたない。ただ遠くから見ていて、あまりにも平凡なこの人は、ひどく正直に生きていた。
 羨ましかったのかもしれない――自分には手に入れられないものを得ることのできそうな人間が、それをふいにしているということに対する苛立ち。それから、そのようにして彼が手に入れたものを、やっぱり自分には手出しできない世界のものを、こんな風に捨て置いたことが。

 それから彼女は、事の顛末をきれいに話してくれた。途中、順序だてて話すことができなくなったり、ただ彼女の主観に行き過ぎた説明があったりしたけれど、出来るだけ公正に、思い出せるだけの事実を、望むままに話してくれた。
 彼女は泣かなかった。切なげに眉を寄せることはあっても、苦しげに息を止めることがあっても、決して泣かなかった。
 それから話の最後にこう言った。

「あのね、高倉君は、最低でも最悪でもないし、京平もそうなの。だから大丈夫だよ」

 自分の食べた分だけきちんと払って、なんとなくメルアドを交換し合った後、彼女は手を振って消えた。

 それからの話はシンプルだ。
 上村先輩は、テニス部に復帰することもなく、その秋からアルバイトを始めた。あのファーストフード店だ。冬に新しい彼氏を作って、二ヶ月で別れた。
 俺はクリスマスの直前に、彼女――佐倉葉子と別れた。軽い執着や束縛癖があったから、別れて少しの間はうるさかったけれど、二年生になるまでにはすっかり落ち着いていた。春には新しい彼氏も出来たそうだ。俺としては、おめでとうと言うべきか、ご愁傷様と言うべきか、よく分からないでいる。
 木嶋先輩は、上村先輩の姉さんと付き合いだしたらしい。その日の夜、上村先輩は泣きながら俺に電話をかけてきた。今までに聞いたことのないような声で、泣きじゃくりながら「助けて」とか「苦しい」とか、そんなことを言い続けた。

『か、覚悟してて……でも、つらい、ね――っ』

 小さな叫び声が押し殺されるのを聞きながら、俺は「大丈夫」と繰り返した。何が大丈夫なのかよく分からなかったけれど、それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。こんな時にずるくなれない自分と、それから木嶋先輩をくびり殺してやりたくなった。
 だからきっと、俺は、上村先輩が好きなんだろうなぁ、と思った。思うだけで何も言葉にならなかった。

「上村先輩、あのさ、一応真面目な話なんで聞いてくれません?」
『っく、――なに?』
「俺は、木嶋先輩でも上村先輩のお姉さんでも誰でもなくて、あなたの味方っすから。ほんと、それだけは信じててください」

 電話口の向こうで、もう一度嗚咽が走った。
 まいった、泣かせるつもりなんて全然なくて、ただこの人がどうやったら笑えるのか知りたいだけなのに。作り笑いの仕方や空気の読み方なら知ってるつもりだったけれど、何の役にも立たなかった。

『あ、ありがと……ね』

 そう言った彼女の声が忘れられなかった。でもやっぱり、何も言えなくて。

 それから季節が夏を過ぎて、秋に入り、木嶋先輩が例の人と別れたという噂を聞いた。ようやくあの人にも天罰が下ったのだ。そう言うと、上村先輩はおかしそうに笑った。
 もう大丈夫だ。たぶん。

 もうそろそろ受験勉強にも身を入れなければいけないだろうに、彼女はまだファーストフードでバイトをしていた。さすがにシフトは減らしてもらったらしいけれど、その抵抗もいつまで続くか分からない。
 辞めないでくれればいい、できれば。
 思いながらくぐった自動ドア。顔を上げた瞬間目の合った彼女は、俺に他の客とはちょっと意味の違った微笑を投げかけ、いらっしゃいませと言った。
 これがいつまでも続けばいい。彼女がいつまでも笑えればいい。


2006/03/31
飴村