第六話 / アニバーサリー


 もうやめてしまったテニス部の後輩で、今ではお友達になった高倉君という男の子が居る。私の惨めな恋を知っていて、強がらずに泣くことを許してくれる、唯一の人だった。私は彼に、この上なく感謝していたし、一人の人間としてとても好きだった。
 でも、私は永遠を信じられなかったし、不変も信じられなかった。だから、不安定で曖昧な私の感情なんて、いくらでも転んでしまえたのだ。

 たとえば、校内ですれ違うときは声をかけあうのが当然のようになっていた。高倉君と出会って二度目の秋だった。
(――あ、)
 放課後の廊下。前方に、高倉君を見つける。隣を歩いているのはたぶん鳴海君だ。相変わらず仲がいいみたい。私は微笑ましい気持ちで笑顔になる。
 このまま歩いていったらすれ違うな。なんて声かけよう。
 そんな時、彼はふとこちらを見て、こう叫んだ。

「さくら」

 その瞬間、私は、上手くものごとを理解できなくて。
 さくら?
 上村先輩じゃなくて? なんで?

「何、雄一」

 困惑を打ち破って返事をしたのは、私じゃない。斜め前を歩いていた、別の女の子だった。
 高倉君は、すごく自然にその子に近付く。

「柏木が文句たれてたぞ。先週の課題、まだ出してないのかよ」
「柏木先生? 嘘、ちゃんとレポート出したはずなんだけど」
「出てたら怒るかよ。いっぺん確認に行っとけよ」
「あ、うん、分かった。ありがとね、雄一」

 そんな会話が、斜め前で、真横で、斜め後ろで交わされてく。歩きながら通り過ぎて行くのは私だけ。
 高倉君は、私に気付かなかった。

『さくら』

 その声が、別れ際の京平の声とかぶって、心臓が重たくなる。おかしいな、京平と里佳が別れたって聞いても、全然平気だったのに。
 じくじくと、梅雨の日の関東ロームみたいに。
(……あれ?)
 ただなんとなく、こんな風にしてどこか痛むのはお門違いのような気がして、不思議な気分になった。だってほら、そういうのって――

 思い当たる理由に愕然とする。

「あれ、上村先輩?」

 思わず振り返った先で、彼が、笑っていたから。あまりにもいつも通りに、笑顔だったから。
 私はこみ上げた衝動をなんと呼ぶのか知るのが怖くて、嫌で、とても安直な思考の結果――その場から、逃げ出した。
 でも、どこに?
 後ろから「高倉!?」という、鳴海君の慌てた声。そして、慌しく迫る足音を聞いた時、ああ、彼が追ってきたのだとパニックの中で認識できた。

 なんで? どうして放っておいてくれないの?
 さくら。
 上村先輩。
 ――ねえ、あの子は誰?

 目の前にきた階段の手すりを掴み、何も考えないまま上へ登った。途中ですれ違った男子生徒が、あんまりにも驚いた顔をして私を避ける。邪魔しないで、どいて。

「先輩っ!」

 来ないで。
 呼ばないで。

 屋上まで駆け上った時には、背後の足音が大きくなっていた。私は、通常では屋上のドアは施錠されているというごく当たり前の事実も忘れて、銀色のドアノブを何度もひねる。がちゃがちゃと無情な音がして、私は泣きそうになった。
 少し荒くなった呼吸音、それから、少しゆっくりになった足音。
 すぐ後ろ。分かってる、そこに居るんだ。
 泣きたい、泣きそう。言い訳なんてこの状況でなんてすればいいの? 分からない。逃げ出した理由さえも曖昧で、けれどそんなの、ずっと前から分かっていた。
 背後で大きく、深呼吸。まるで呆れたため息みたいにも聞こえた。

「上村先輩?」

 それから、宥めるみたいに優しい声。それって、後輩が先輩に対してかける声じゃない。でもそれは、私が弱い所をずっとさらけ出していたからいけないんだ。
 だって高倉君は何も言わないで甘えさせてくれるから、私は何か勘違いしてたのかもしれない。

 背後から、一歩一歩近付いてくる気配。私はまだ、振り返らないで外に通じるドアノブを握り締めている。何かのはずみで、かちゃりという開錠の音が聞こえないかって。まだ逃げたがっている。どうしよう。

「俺、何か気に障ることでもしましたか? だったら言って欲しいんすけど」
「……ちがう、違うの。何でもないの、私が変なだけで……大丈夫、ごめん」

 彼が何か一つ動作をすると、背後で空気が蠢いた。その度、私はびくりと肩をわななかせそうになる。泣きそうなぐらい、目の奥と、鼻の頭が熱を帯びていた。
 だって、こういうのって、ずるい。彼には泣き声だって弱音だって聞かれたことがあるけれど、それでも、誰かの前で泣くのは卑怯だとしか思えなかった。
 ほら、特に今回は理由が理由だから。

 でも、彼は近付く。そんな風にして、退路を塞いで、たぶん優しい顔をしている。怖くて振り向けない。
 卑怯なのがどっちか、分からなくなるように。

「先輩、触っても平気っすか?」
「――なんで」
「そうしたいからっす」
「……嫌だ」
「……そうですか」

「……ごめん、嘘、別にいいよ」

 数秒して、後頭部や背中にのしかかる暖かな重み。もう一年も馴染みのなかった、あまりにも懐かしく愛しい感触。「男の子」ではなくて「男の人」の空気。
 離して、と口にしかけたのに、声にならない。きっと、それは口に出した瞬間に嘘になる。さっきの拒絶の言葉のように、後になって私を傷つけるだろうから。
 でも、それも言い訳みたい。
 私はただ、この長い前髪の持ち主が、好きなのだ。

「――ねえ、高倉君、ごめんね」
「何がっすか? いきなり逃げ出したこと?」
「それもあるけど……ううん、ただの自己満足」
「謝られるようなこと、されてませんよ」
「違うの」

 そういうことじゃなくて。ただ心の内側で燻るだけで。

「じゃあ何なんですか」
「――その、ね、嫉妬したって言ったら、困るでしょ?」

 空気は常温。屋上へ通じる階段は、生臭くて蒸し暑くて。愛の告白には最低の場所かもしれないと、ようやく冷静になった一部分がそう思っていた。
 彼はそっと顔を上げた。頭にかかる重みがなくなった。

「それってさくらにですか?」
「……うん、たぶん、その子」

 ただ会話の中に出てくるだけで、感情が特別になる。
 こんな名前じゃなければよかったのに。そんな嘘をいいかけた。

「高倉君、私のフルネーム言える?」
「言えますよ。上村さくら。……ああ、だから、ですか?」
「――うん。馬鹿でしょ?」

 回された腕の温度がきつくなる。彼は私の耳のすぐ後ろで、押し殺したようにくつくつと笑った。
 呆れてるのかな。でもそんな感じじゃなくて。

「言っておきますけどね、アイツはさくらなんて名前じゃないっすよ」
「……え?」
「違うんですって。同じさくらでも、あっちは苗字なんすよ。佐々木とかの佐に、鎌倉の倉で、佐倉」
「うそ」
「こんなトコで嘘ついたってしゃーないですって」

 それはそうかもしれない。
 さくら、桜、サクラ、佐倉。
 勘違いに目が廻る。ああ、それとも、やっぱり名前の半分であるわけだから、勘違いでも何でもないのかな。

「でも、俺、先輩が京平先輩と別れた頃、アイツと付き合ってましたよ」
「……そっか」
「だけどあんまもたなかったっすね。束縛する癖が強くて、嫌になったんです。俺、どっか自由でないと嫌で。今ではお互い、友達に戻って良かったって笑い合えるようになったから、いい判断だったとは思いますけど」
「うん」
「だから、今はフリーなんすけど」

 私はなんとか首をひねって、至近距離から彼を見上げた。長い前髪の間から覗く目が、嬉しそうに笑っていた。何を言いたいのか、言わなくても分かるよね? といった風に。
 ああ、そういえば彼は、優しいけど時々卑怯な人だったんだっけ。

「『嫉妬した』ってだけで、終りなんですか?」
「――高倉君は、言わせたいの?」
「さあ?」

「……ごめん、冗談です。でも、これでさっきの嘘とあいこっすよね。だからそういう顔やめてください」
「どんな顔してたの?」

 聞き返すと、彼は困ったように眉尻を下げて、うっすらと笑った。

「何かの勘違いだったら、俺、すっげー恥ずかしい奴じゃないっすか。でも、やっぱ言わせるのは卑怯ですよね。俺の方が何にも言ってないのに」

 耳元を掠める声。
 暖かく、柔かく、いつの間にか馴染んだ。

「好きです」

 先輩が無邪気に笑うときとか、泣くの我慢してるときの目とか。喋るときの柔かい声、テニスの応援をする時に上気しきっていた頬、また少し伸びた髪。どれもこれも、好きです。先輩が泣かずに、笑えればいいと思ったんです。できれば、ここに居てほしいと思ったんです。

 たとえ軽い一言でも、「嘘だ」と否定できなかった。彼は斜め後ろから、私の髪の毛に口付けて喋る。呼吸が何もかも真実を証明できればいいのに。

「高倉君は、私のことなんて呼ぶの?」
「――さくら、の方がいいですか?」
「雄一の方がいい?」
「ここは先に答えてくださいよ」
「好きだよ」

 しばらく押し黙った後、彼は静かに呻いた。

「ズルいっすね」
「雄一ほどじゃないよ」

「ねえ、名前、呼んで」

 たとえばほら、一年前の悲しい別れを、忘れるんじゃなくて受け入れる為にも。

「さくら」

 生ぬるい屋上のドアの手前で。甘い春の花の名前。
 私は長い前髪をもつ人の腕を、もしかしたら一生忘れないのかもしれないと思って、私は瞳をとじた。何かを閉じ込める為にではなくて。


2006/04/12
飴村