第七話 / 巻き込まれるもの


 彼女が欲しい、と夏休前によくほざいていた男は、その実、誰よりも他人を必要としていないことを、俺は良く知っていた。
 けれどもその男の発言が食い違っているようにも思えなかったのは、多分こいつの「~が欲しい」という発言が決して、「~が必要」ではないのだということだとわかっていたから。「欲しい」というのはあくまでも「欲しい」であって、つまり用が済めば、さようならときちんとできてしまうであろうから。
 今年の夏も、ひと夏の思い出、として処理されてしまう女子を思うと、哀れな気もしたけれども。外見とかステータスでこの男を選んで、その結果、ひと夏の思い出で終わってしまうならば、それも当然の報い、か。それとも、彼女たちのほうも、結局「欲しい」だけなのかもしれない。

 それに比べて、俺は今年も部活の合間を縫って、夏期講習という、まぁ、教師共が喜びそうな絵に描いたような高校生活が待っていたわけで。

 俺が炎天下の中むさい野郎共と汗を流して、そのあと妙にクーラーの効きが悪い狭い教室でつまらなく講師の話を聞いている間、あいつは輝かしい太陽の下ビキニのねーちゃんを眺めて、夜は浴衣の同級生と手をつないで綿飴食ってるのかと思うと、マジな話殺意が芽生える。羨ましいと思う反面、自分がそこまで徹底出来はしないことを、俺はいやというほど知っている。

 俺の人生なんて所詮そんなもんで、スポットライトはいつだって、俺じゃなくて、こういう男に当たってて。俺はごくごく平凡な毎日を送って、いつだって「その他大勢」に含まれるのだろうと、そう思っていた。
 いや、別にそれで構わないのだけれども。
 そんなことを考えると、巷で人気のどんな歌手の歌も、どれもこれも下らなく聞こえて。何処にそんなに恋愛が溢れているというのだろう。少なくとも俺の周りは、いつだって平々凡々だった。

 だからたとえ、廊下で追いかけっこしている男女を見ても、何処かリアリティに欠けるその映像がよく理解できない。
 昨日だったか一昨日だったか。もうそんなことすら思い出せないけれども、やたらと必死な表情で階段を駆け上がってきた女子にぶつかりそうになって、それを避けたら、その後からまた階段を駆け上ってくる男がいて。
 こちらは運悪く肩がぶつかってしまって、そのとき持ってたプリントが廊下にばら撒かれてしまって。その男子生徒は、すみません! と謝って、慌てて足元に広がったプリントを集めて渡して、再度謝ると、急いでいるんで、と踵を返して走っていった。
 あのあとあの二人がどうなったのかとか、そんなことは俺にはわからないけれども。
 どのみち、ああいうことは全て俺とはまったくかけ離れたところで起きている事象で、俺の世界にあんなピンク色の空気の出来事は存在しない。

 ピンク……桜。……さくら?

 ふと、名前をあの女子のほうの顔を知っていたことに気がついて、記憶の糸を手繰っていると、前の席の椅子を引く音がして、聞きなれた声が上から降ってきた。

「たっきー、宿題見せてー?」

 些細なことでもだ。俺が何かしようとしていると、いつもこいつが唐突に邪魔をする。
 加賀谷はいつものように笑みを浮かべながら両手を差し出して待っている。まるで犬だ、と思うけれども。それと同時にそれが嘘だということも分かっている。

「挨拶の前にそれかよ……嫌だっつったら?」
「どーせ最後には見せてくれるんだろ」
「……まぁね」

 俺がささやかな復讐をしようと思って何か考えても、上手くいくはずもなく。憎めない性格というのは得だな……。毎度毎度、自分でやってくるということをせずに、ただ俺のを提出する前の授業中に片付けるこの男を、結局のところ俺は毎度許してしまっている。

 差し出した何の変哲もないノートをとって、加賀谷は背を向けた。
 席替えなんて最後にしたのがいつだったか思い出せないけれども、ずいぶんと前からこうして加賀谷は俺の前の席に座っていたような気がする。気まぐれに後ろを振り向いて、他愛のない話題で笑わせて。一通り満足したら、そうやって背を向けて。
 偶に思う。俺の声は、おまえを振り返らせることが出来るのだろうかと。無理かもしれない、と思うと、胸の何処かが痛んだ気がした。不可解な感覚に、自分でも首を傾げる。

「滝本、米倉先生が呼んでたぞ」
「阿部……」

 後ろからかかった声に振り返ると、珍しく前のシャツを大きく開けた阿部がいた。短い黒髪か濡れている。前髪から雫が垂れて、足元の床をぬらした。

「朝練か?」
「そ」
「つくづく見上げた奴だよな」
「後輩がだらしないからだよ」
「大変だな、部長も」

 肩にかけたタオルで濡れた頭をガシガシ拭いている姿を見ていると、なんだかため息が漏れた。こいつも俺とは違う意味で、無縁なのかもしれない。少し離れたところから迷惑そうな視線を投げている女子を視界の端に捉えつつそんな思案をめぐらせるけれども、当の阿部はそんな視線をまったく意に介した風はない。

「……阿部はさ、」
「あ?」
「……イエ、何でもないです」
「あそう?」

 真面目でいいのだけれども、それは違う方向へ何処か無関心に繋がるということなのだろうか。
 そういえばさ、と言いながら阿部は鞄からノートを取り出して開いた。

「今日の数学の、九州大の第二問目、出来た? 後半式展開が微妙になってわけわかんなくなってさ」
「あーアレね。今……加賀谷にノート貸してるけど。ええと、確か…」
「何滝本、おまえまた加賀谷にいいように使われてるのかよ」
「そんなこと言うなよ、阿部ちゃん。俺とたっきーの仲だぜ」

 ポンと頭に何か当たって、思ったとおり、先ほど貸した数学のノートが頭の上に乗っていた。

「ありがとさん、たっきー」
「……まともに返せないかよ」

 ハハ、と声を上げて笑う加賀谷は、悔しいけれども女子に人気があるのも頷ける。阿部は面白くなさそうにそんな加賀谷を睨んでいる。

「加賀谷」
「なんですかー阿部ちゃん」
「少しは自分で解こうとかいう努力をしろよ」
「あのね、阿部ちゃん。俺がここでちょっと努力したところで、阿部ちゃんが途中で解けなくなっちゃうような問題、解けると思うわけ?」
「……そういう話をしてるんじゃねーよ」
「思わないっしょ? なら時間はもっと有効に使おうと思ってさ。世界のためにもね…それはそうと。たっきー、米倉に呼ばれてるんじゃないの?」

 険悪な空気の中、突然俺に話をふらないで欲しい……。

「……いってきます」
「いってらー」

 ひらひらと手を振って見送る加賀谷を、阿部は相変わらず胡散臭そうな目で見ていた。この二人に挟まれて日々生活している俺って……。

 教室の後ろ側の引き戸をあけようと手を伸ばすと、触れる前に大きく開いて、そこにはクラスメートの中居がいた。長い茶色の髪を今日は二つに結った彼女は、一瞬驚いた顔をしたあと、にっこりと笑った。

「滝本くん、おはよー」
「おはよう」
「何処行くの?」
「米倉のとこ」
「あー。成る程。米倉先生滝本くんがお気に入りだからね」

 ご愁傷様、と言ってまた中居は笑った。そういえばこいつは、よく笑っていたような気がする。何がそんなに楽しいのか、それとも人生幸せで溢れているのか何なのか知らなかったけれども、基本的には笑顔だった。それ以外の表情があまり記憶にないのは、実際中居がその表情しか見せないからか、俺が中居自身をあまりよく知らないからか。
 
「迷惑きわまりない話だけどね」
「いってらっしゃいー」

 何がそんなに楽しいのか。やっぱり笑顔で手をひらひらと振って笑る中居に見送られて、教室を後にする。
 廊下ですれ違う数人に声がかけられる。いつだって、朝っぱらから何がそんなに楽しいのか、笑い声が絶えることがなくて、偶におかしいのは自分なんじゃないかと思う。けれども、俺の日常を探してみたところで、やっぱりそんなに毎日、大声をあげて笑うようなことで溢れているはずもなく。結局、大差ない毎日が繰り返すだけだった。
 三年生の教室は東校舎の二階にあって、どういうわけか職員室は西校舎の二階にあるため、下級生で賑わっている廊下をいくつも通らなければならない。心なしか、一、二年生の校舎のほうが賑やかだった。それがまた微妙な不快感を募らせて、朝だというのに疲れが蓄積されていく。

「失礼します」

 職員室の扉を開けて、目的の人物――世界史担当の教師・米倉光広を探す。一番奥の席。窓際の机にいつものように山積みの文献に埋もれているその人を発見して、生徒が入ってきたことになどまるで気付いていない慌しい職員室を横切っていく。
 三十代前半の米倉は、職員室の中でタバコを吸えないことを若干不満に思う程度には喫煙家だった。近づくと微かにタバコの香りがした。慣れた臭いだ。僅かにでも香ればすぐにわかる。

「米倉先生、」
「おー、滝本!よく来た。一時間目、おまえの教室世界史だろ。これ、資料先に持っていってくれ」

 女生徒に人気のあるこの教師は、特別美形というわけではなかいが、今流行りのお笑い芸人の誰だかに似ていると、そういえばいつだか中居が言っていたということを思い出した。

「はぁ……先生自分でやってくださいよ」
「重いから頼んでるんだろ」

 そして不本意にも、米倉は、夏まで所属していた弓道部の顧問でもあった。 

「な。ここの印刷した資料と、あとこれ、地図。あ、それとこっちのプリントも頼むな」

 気持ち良いくらいの笑顔でそういって資料を押し付けたこの男が心底憎い、と思いながらも、結局それを引き受けて、片手で持つには重過ぎるけれども、両手で持つ分には何ら問題の無い量の資料を山を持って来たとき同様、長い道のりを帰ることになった。
 断るのが怖い? けれども考えてみれば、結局断るだけの理由もない。面倒だということ以外に、特別やることがあるわけでもない。
 だったら、適当に言うことをきいて、「いい子」を演じていたほうが、得することが多いように思って。
 なんて全部打算でやっていたわけではないけれども。

 資料を運びながら、三階へと向かう階段を上る途中に、いつぞやのピンク色の空気を撒き散らして鬼ごっこして遊んでいた二人組みが視界の端にうつった。
 ああ、そういえば、あの日も運んでいたのは例によって、米倉に頼まれた世界史のプリントだったな、と思い出して。だからあれは昨日じゃなくて、一昨日だったとか。そんなどうでもいいことと一緒に、女の方の名前を思い出した。いた。E組にいた気がする。二年の頃同じクラスだった、上村さくら。
 その横顔は、あの日見せた切羽詰った感はなくって。一緒に談笑する男のほうにも笑顔があった。
 上手くいったわけね、と何処か冷ややかに思いながら。数段階段を上ったところで、正面に人が立っているのに気がついた。

「――中居、さん……?」

 いつだって笑顔だと思っていた彼女の顔には、このときばかりは笑顔はなくて。それこそ、何かお面のような顔をしていた。
 朝のHR10分前、「おはよう」の挨拶と、誰かの笑い声と、他愛のない談笑で溢れているその空間に、いつも笑顔だった中居の存在は容易く溶け込んでいたはずのものだったのに。笑顔を取り除いた中居は、そこにいて明らかに異質だった。
 視線の先をたどるまでもない。そこに誰がいるのかは、何故かはっきりとわかった。あの二人だ。けれども、何故?

「……中居さん」
「……へ? あ……、滝本くん。おかえりー」

 途端に笑顔に切り替えられるこの女を、俺はこのとき初めて、怖いと思った。笑顔を貼り付けた中居は、すんなりとまたもとの空気に溶け込んでいた。けれども……。

「……あのさ、」
「? 何ー?」
「中居さんて、上村さんと知り合いだっけ?」
「……親友だよ」

 その返答に含まれた毒をはっきりと認識出来ないまま、俺は飲み込んでいた。……飲み込めたと、思っていた。蟠りが残って、居心地が悪い。
 恋愛に関するごたごただって、ピンク色の空気だって、俺には無縁だったはずなのに。

「だったよ、が正しいのかもね」
「あー……何か深い事情があるんだね……」

 寂しそうに笑った。けれども何処か苦味を帯びたそれは、飲み込むにはあまりにも大きすぎた。


2006/04/16
工藤