第八話 / 「親友」


 世界に自分が必要だなんて、そんなこと本気で思うほど、私は思いあがってはいない。けど、誰かにとって必用ではあると、信じていたかった。
 私がいつも最初に秘密をうちあけるのが、弱みを見せる相手がさくらだったみたいに、さくらにとって、それは私であってほしかった。あるべきだと、そう思っていた。そんな思いなんて、所詮は一方通行で。さくらが泣きついたのは高倉くんとかいう後輩で、私じゃなかった。
 憎いのが、私のとこにこなかったさくらなのか、それともさくらの欲しかったものを与えることが出来た高倉くんなのか、それとも、与えることが出来なかった、泣きついてもらえない自分だったのか。私の頭の中はグチャグチャだった。
 子供っぽい感情? 世界に一人くらい。欲しい。そう思って、何が悪い。

 京平くんと別れたとき、さくらは泣きながら電話してきた。
 二年生の夏休みの終わる頃だったか。何があったかきちんとその口から聞き出すのは酷く困難な作業で。嗚咽と、鼻水をすする音ととの間の単語単語で、漸く京平くんにフられたのだとわかった。

「さくら、さくら、落ち着いて、ね? 大丈夫だから。今何処? すぐ行くから」
「駅前っ……桜並木のとこ、の……きっさてん……」
「あそこ? わかった。すぐ行くから。待ってて。ね、さくら」
「……ん、……めんね……」
「何言ってんの。さくらがあやまることないんだから。すぐだから! 待ってて」

 あきれるような気持ちと同時に、優越感に似たものがあったのだと。それはずいぶん昔から気がついていた。
 私はいつだって、「頼れるアネキ」的なポジションを確保していた。相談事なんて、日常茶飯事だった。必ずクラスに一人はいる、手のかかる子の面倒を見るのは、いつだって私の仕事だった。
 さくらも、そんな一人だった。
 入学式の日、学校へと向かう電車の中で知り合った。同じ制服、新品のローファー、新しい鞄、電車の窓にうつった襟元をぎこちなく直していた姿に、ああ、あの子も同じ一年生なんだな、と知った。話しかけてみて、すぐに意気投合した。張り出された掲示板で、同じクラスだと知った。

「中居さんは中学のとき部活何やってたの?」
「実紀でいいよ。バスケ部。さくら……でいい?」

 当たり障りのない話題で笑って、ゆっくりと相手との距離を縮めた。新しいケータイに使いまわしのストラップ。メアドと番号を交換して、下の名前で呼び合う許可を与えあって。

「うん。私は吹奏楽部だったよ」
「へぇー。楽器は何やってたの?」
「クラリネットだよ。実紀、は部活、何かやるの?」
「んー考え中。さくらは?」

 「友達」という関係を確かめ合うために、確認するように何度も名前を呼んでみる。気恥ずかしさが残る。
 春の日差しと風が暖かくて、僅かに香る若葉の匂いに押されて、慣れない校舎を行く。ついた教室には、幾人かがグループをつくり、すでに人であふれていた。

「実は決めてあるんだ」
「何処?」
「テニス部」

 さくらは笑った。
 飛びぬけて可愛いわけじゃない。多分何処をとっても、さくらは平均以上などいかなかっただろう。けれども、嬉しそうに笑ったさくらは、可愛かった。眩しくさえ、見えた。

「選手?」
「ううん、マネージャー希望」

 黒板に書かれた出席番号通りの席に荷物をおいて、そのまま会話は続いた。さくらは嬉しそうに語った。何がそんなに嬉しいのか、さっぱり見当もつかなかったけれども、私は笑った。

「吹奏楽じゃなくて?」
「ずっとやりたかったんだ」

 だからずっと、私は、さくらがテニスが好きなんだと思っていた。けれども、その一週間後に、さくらは思いがけない秘密を私に打ち明けた。

「あのね、なんか……、好きな人が出来た、みたい?」
「何で疑問系なの」

 授業も始まり、新しい教科書には慣れない跡がついて、新入生用のオリエンテーションとかも一通り終わった頃だった。私はその前日、女バスへ入部届けを提出していた。
 ロッカーから取り出したシューズに紐を通していると、言いづらそうに何度かどもりながら、漸くさくらが口を開いた。

「で? なんて人? 格好いい?」
「……A組の、人」
「名前は? つっても、違うクラスじゃあ、中学一緒だった人くらいしか知らないけど」
「それがね、わかんないの」
「はぁ?」
「……笑わないでね。……一目惚れ、したの」

 こうしてさくらは入学早々、ある男子(次の日だかに名前が判明するのだけれども。その名も木嶋京平)に一目惚れして、その次の週だかには告白するに至った。
 驚いたことに、木嶋京平はさくらの告白をOKし、二人は付き合うことになった。四月だった。

「ていうか木嶋くんも、テニス部なのね」

 名前が判明した次の日の昼休み、お母さん手作りの弁当を広げながら言うと、さくらは顔を赤らめた。それを誤魔化すかのように、さくらはペットボトルに入った果汁10%だかのオレンジジュースをがぶ飲みした。

「だから選んだの?」
「違うよ! テニスのマネージャーはもともとやりたかったの!」
「へぇー?」
「信じてない顔! 本当だってば」

 春は、多分きっと幸せに過ぎていった。新しいことばかりで、退屈などしている暇はなかった。さくらはこまごまと細かい問題をいくつも運んできたけれども、お弁当を挟んで会議したり、部活が終わったあと、駅前のマックで、コーラとポテトで二時間ねばったりで、大抵解決した。
 メールでのやりとりも日課で、電話で何時間も話しこむこともよくあった。
 そうして、夏休みが始まり、私は部活の練習に追われて、時間と予定さえあえば、夏休みも毎日のようにさくらと顔を合わせた。
 特別何処か遠出なんてすることはなかったけれども。地元の夏祭りに行って、二人に気を使って、京平くんにひっぱられてきた阿部と途中に消えてみたり。ばかばかしいほど、「高校生」な生活を送っていた。
 いつの間にか、「木嶋くん」と呼んでいたのが、「京平くん」になって。

 兎に角、それだけの時間が過ぎて。夏休は終わっていた。
 暑さが残るなか、夏服で過ごす最後の一週間。部室から着替えて外へと出ると、テニスコートから並んで出てくる二人が見えた。笑っていた。

「お疲れ、実紀ちゃん」
「あ、お疲れさまです、渋谷先輩」
「お先にねー」
「はい。また明日」

 夕日に照らされて談笑する二人は幸せそうだった。スポーツバッグを肩にかけて、渡り廊下を歩いていく先輩の後ろに続いた。
 そうして、季節は回って、寒い冬が過ぎて、また春がきた。入学式にあわせたかのように咲いた桜は、去年と同様、ピンク色で綺麗だった。
 校舎の前に張り出された張り紙を見て、私はとなりのさくらを振り返った。

「えー! 実紀と違うクラスだよー!」
「あー清々する。やっとさくらのお守りから解・放☆」
「失敬なー。……実紀と別のクラスか……寂しくなるな……」
「旦那とは?」
「旦那って……京平とも違うみたい」
「残念だねぇ」
「実紀は阿部くんと一緒じゃん」
「そのようね」

 さくらが悪戯を思いついたように笑った。

「何。キモいな」
「実紀は阿部くんとかどうなの?」
「お断りだね。あんなぬけてる男」
「しっかりものじゃん。阿部くん」
「そういうことが問題じゃないのー」

 何気ない会話。去年を思い返すと、ずいぶんと色々なことまで話すようになったな、と感じる。一年て早い。
 何処かで、去年のように一年が過ぎていくのだろうと思っていた。似たような一年は、それでもこまごまと違って。後輩が出来て、また部活は部活で問題が山積みで。それでもさくらとの仲は相変わらず続いていて。さくらも変わらず、京平くんと付き合っていた。
 腐れ縁というのだろうか。私と阿部との、子供を見守るような保護者同士の関係も、間にさくらと京平くんがいるかぎり、当たり前のように継続していて。何度か二人で会うこともあったけれども、結局はそういう方向にはいかなかった。

 だから、二回目の夏も、当たり前のように終わるはずだった。
 けれども、夏の終わり、休日の午後。ジャケットを探しに買い物に出ていると、ケータイから間抜けな着メロが響いた。液晶に表示されたのは、着信履歴の大半を占めるその名前。上村さくら。

「実紀……あたし……っ……も、だめ……」

 受話器あげるのボタンを押すと、さくらの泣き声がきこえた。
 そして、冒頭に至る。

 その後、慌ててその喫茶店に走ると、入り口のところで蹲ったさくらがいた。スカートが道路に触れて、裾が汚れてしまっている。ところどころ妙に皺が寄っていて、さくらが握り締めていたのだろうということがわかった。駆け寄って、名前を呼ぶと、目を真っ赤に腫らしたさくらが抱きついてきた。

「大丈夫だから、さくら」

 子供みたいに体温が高いと思った。しゃくりあげるさくらは、やっぱり手間のかかる子供みたいだと思った。
 泣きじゃくるさくらをつれて、近くの公園のベンチで、日が暮れても、話し合った。話し合うというより、さくらをなぐさめて、適当に京平くんを悪口を並べ立ててみただけだったけれども。

 入学式から続いていたような日常は、そこで終わりを告げた。
 さくらはテニス部を辞めて、そうしたら、生活時間が途端に合わなくなったかのように、私とさくらの会う時間は、減っていった。程なく、彼女が例のファーストフード店でバイトを始めた。
 放課後、部活の終わったあとに店に寄ると、さくらのシフトが終わるまで大抵あと三十分だった。財布に余裕があるときは、飲み物だけ頼んで、窓際の席で、さくらの仕事が終わるのを待って、一緒に帰った。ないときは、向かいのコンビニで立ち読みをして待った。気がつけば、私が彼女にあわせるようになっていた。

 その頃からだろうか。高倉くんの姿を、さくらの周辺で見るようになったのは。バイト先の店によく彼がいた。自分もしょっちゅういたわけだから、人のことを言える立場にないことは分かっているのだけれども。それがやたらと目に付くようになって、漸く私はその可能性に気がついた。
 けれどもさくらは、バイト先で出会ったという吉田という男と付き合うようになった。クリスマス前だったか。近くの男子校の二年生だときいていた。
 さくらが、遠くなっていくように感じた。
 さくらは、二ヶ月後に別れた。けれども、私がその話をきいたのは、さくらと吉田くんが別れて、一週間が経ってからだった。

 そして三度目の桜の季節。
 去年の夏以来部長になった私は、確かにさくらにばかり気をかけていられるような状況ではなかったけれども、新入生を迎え、夏まで部活漬けの毎日が続いた。
 私にも多少のロマンスはあったけれども、部活を最優先にしていた私と、隣の男子校の松浦とは長続きなんてするはずもなく。一ヶ月で終焉を迎えた。五月のことだった。
 インターハイ出場を賭けた試合で、78-70という得点差で、私たちはインターハイへの切符を逃して、私の最後の夏は終わった。

「実紀、予備校決めなさい」
「……だからいいって。別に行かなくたって」
「何言ってるの。浪人がどれだけ辛いかわかってないからそういうこと言うけど。来週までに決めて、申し込んでらっしゃい」
「……ハーイ」

 母親の期待に応えて、大抵の高校三年生がそうであるように、夏休後半は、そんなこんなで、冷房のきいた大手予備校の教室で過ごすことになった。
 この頃には、さくらはずいぶんと離れた存在になっていた。

 気分転換に、クラスの友達と向かった夏祭りで、ほんの偶然に、人気の無い公園のはずれで、唇を重ねる京平くんとさくらのお姉さんを見た。そして、漸くさくらが私には漏らさなかった真実に気がついた。

「何で言わなかったの!?」

 久しぶりにかけた電話は、コール数回のあと繋がった。さくらは本当に申し訳なさそうにごめん、と繰り返した。

「だって、実紀忙しそうだったから……迷惑かけちゃいけないと思って……」
「……いつから?」
「へ……?」
「あの二人、いつから?」
「……五月……頃、かな……」
「三ヶ月も前じゃん!」

 クラスが離れて。時間が合わなくてなって。そうやって少しずつずれていって。それでも根本的なものは何も変わらないと思っていたのに。
 さくらはだって、そんなことが起きて、一人で立っていられるような人間じゃないということは、私が誰よりもよく知ってるのに。一度もそんなことは、話題に上らなかった。偶に会って話すさくらは、相変わらずいつものファーストフード店でバイトを続けていて、いつもと変わらない笑顔でいたから。
 それとも、私が見抜けなかった?
 いつものさくらと、そうでないさくらを。
 最早見分けることが出来ないほど、私はさくらから遠い?

「……もう、本当、大丈夫だから」

 ね、大丈夫。とさくらは繰り返した。何が一体どう大丈夫だというのだ。
 大丈夫だから、なんだっていうのだろうか。

「嘘」
「本当だよ。もう大丈夫」

 そんな声で話すさくらを、私は知らなかった。ケータイの向こうの声から、さくらの顔が思い浮かべられない。
 実の姉に男をとられて、それで平気だなんて。

 繰り返される問答に、不意に一人の顔が、脳裏を掠めた。
 いつもファーストフード店にいて、さくらと仲が良さそうに言葉を交わしていたあの二年生。

「高倉くんにも、いっぱい慰めてもらったし」

 タイミング悪く告げられるその名前に、不快感が走る。そこは私の席なのに。さくらは、隣に私がいて、面倒を見ていてあげないと駄目なのに。一体そいつにさくらの何がわかるというのだろう。
 さくらは私がいないと。
 私がいないと?
 私がいなくても、さくらは、立っているじゃないか。 

 それから、悪い予感は的中して、さくらの心を高倉くんがあっという間に奪っていくことになるとは。

「もう大丈夫だから、実紀。心配しないで。……ありがとう」

 じゃなければ、私の存在する意味って何? その問に、指先から心まで、一瞬で凍る。

 夏祭りの踊りの音楽や、賑やかな声が聞こえる。焼きそばやお好み焼き、フランクフルトの匂いに混じって、甘い匂い。耳障りな雑音に押されて、そこだけがやけに静かに映った。
 雑踏から離れた木々の影。視界の端に、指を絡ませて闇の中に消えていく二人の影が見えた。


2006/04/20
工藤