第九話 / 流動


 彼と会うのは、これが最後かもしれない。
 京平くんと付き合いだしてから、私はいつでもそう思ってから出かけることにしていた。そうすれば、もしかすると京平くんのことを愛しく思うことが出来るかもしれない、と思ったからだ。
 結局のところ、その試みはあまり上手くいっていない。
 私は今でも、不毛な恋をしていた。

「夏祭り行かね?」

 そのメールを受信したのはちょうど三日前。私は丸々24時間置いて、「いいよ」と返信した。
 行くのはほんの少し億劫だった。京平くんと笑いあったり、体を繋げたりするのは、自分がここに存在しているのだとはっきり自覚できるようで心地よかったけれど、ときどきそれが無駄だとすら思える。
 会話の端々に「彼」との共通点を探し、目を閉じては別の人を想うということ。
 やはり、そろそろ限界なのかもしれない。
 ため息が出た。
 もちろん夏祭りには行ってみたかった。もし、一緒に行くのが京平くんではなく「彼」だったならば、私は面倒な浴衣だって着てみせたかもしれない。でも所詮、京平くんは私にとってのセカンドだった。京平くんに抱く好意が小さいのではなくて、ただ一人に注いだ感情があまりにも大きすぎただけの話だ。

 私は結局、夏祭りの当日、シンプルな紺のワンピースを着て出た。中に白いキャミソールを重ねるタイプで、それを着れば自分が華奢に見えるということも知っていた。夕方の薄闇にも映えるようにメイクをした。
 そんな風に着飾ることによって、私はじくじくとした痛みを抱える。京平くんが妹のさくらと付き合っていたことなんて、私が知らないはずがない。だって、京平くんとはさくらを通じて出会ったのだから。
 私はたぶん、さくらに好かれていないと思う。同じ親から生まれたにもかかわらず、私とさくらはあまりにも違っていた。私は望もうが望むまいが、それに関わらずさくらの色んなものを奪っていたのだ。
 そしておそらく、京平くんの存在は、その最たるものだったのだと思う。
 「私がそれを望んだわけじゃない」と言い訳しても、惨めになるだけだろう。けれども結局、京平くんのことは、本当に受身だった。少なくとも私はさくらが可愛かったし、京平くんと付き合っている時のさくらを応援したかった。私は不毛な片想いを続けていて、おそらくこれからもそうなるのだろうと思っていた。

 思い出すだけで心が曇るのは悪い癖だ。いつまでも払拭できない、とてつもない悪癖。
 鏡の中の自分と向き合い、淡い紅色の唇を確認する。
 京平くんからのメールがきて、それから5分後に彼は私を迎えに来た。

「なんか、久しぶり」

 ほんの少しぎこちなく、京平くんは笑った。黒いTシャツから覗く腕が、前よりも焼けている。

「テニス、頑張ってたの?」
「もう受験だけどね。いい息抜きだよ」

 それから彼は、私をぐるりと見回して「そのワンピース、似合ってる」と言った。
「ありがと」
「ホントは浴衣期待してたんだけどね。人生そう甘くないか」

 それからごく自然に手を繋いで、二人して歩いた。気温も湿度も高くて、てのひらがじわじわ湿るのが分かる。
 まだ会場は遠いけれど、街路樹には白と赤の提灯がずいぶんと手前から連なっていた。華やかな色の浴衣を着た女の子たち。カラコロとアスファルトが鳴る。
 私と京平くんって、周りから見たらどんな風に見えるんだろう。そんな愚問を心中で連ねたり。
 うつむき加減に足元を見つめる。私のそんな行動に、いつだって京平くんは素早く反応した。

「何? 調子悪い?」
「ううん、そうじゃない」
「そっか? でも無理すんな」

 それから少し、歩調が遅くなる。彼流の優しさだろう。
 ああ、本当に、私は何もかもが不誠実だと思った。

『いいよ、里佳さんに好きな奴が居ても。試してみればいーでしょ、二番目でもなんでも。試してもやっぱ駄目だったり、試したくもないってぐらい嫌われてんなら、それでもいいですけど。でも里佳さん、そこまで俺のこと嫌ってないって、俺はそう勝手に思ってんすけど』

 いっそ傲慢なほどに真摯な言葉を、目を、今でも思い出すことができる。なにせまだ2ヶ月しか経っていないのだから。
 私は何度も言葉を尽くして「誰よりも大切に想う人が他に居るの」と伝えたけれど、京平くんは引き下がらなかった。彼が私に対して何らかの幻想を抱いているのは分かっていたし、もう既に決着をつけてしまったと言われても、京平くんはただ一人の妹のものだったのだ。
 でも結局、私はほだされた。不毛な想いの連鎖を断ち切りたくて、安易な幸せにつられて。
 それでも、何も変わらないのだと分かっていた。繋いだ指先から、暖かい塊が流れ込んできても、柔らかな唇を合わせても、それこそ一つになったとしても。私が泣きたくなるぐらいに想うのはたった一人で、いつまでもどこまでも、誰一人、その足元にすら到達できなかった。しばらくはずっとそのままだろう。分かっていて抗った。ますます惨めになった。

「上の空?」

 覗きこんだ京平くんの顔は、あまり落ち着いていない。私は反射的に笑顔を作ったけれど、買ってもらった綿菓子はほとんど減っていなかった。
 甘い匂い。ソースの焦げる音。それからじくじくと燻る熱。

「やっぱり休もう。近くに公園あったし」
「え、いいよ、大丈夫だって」
「ほら、どっちにしろ焼きそばとか、この人ごみの中で食べるの辛いし。ベンチに座って食おうって言ってんの」

 有無を言わせない手が私を引く。こんな風に強引に突き動かしてくれる京平くんは頼もしくもあった。それはまるで別世界の生き物のように。フィクションの中、非現実性を伴って。
 ベンチに座り、ほとんど手付かずの綿菓子を少し食んだ。甘く粘ついて溶ける。
 京平くんは近くの自販機からブラックコーヒーを買って戻ってきて、小気味良い音と共にプルトップを上げた。

「違う場所から見たら、ホント混んでる」
「そうだね」

 でも、喧騒の中で、不幸せそうな人は見当たらなかった。人々はなんらかの形で幸せそうに見える。でも、私たちはその中に含まれない。

「ね、ちょっと頂戴」

 答える前に、京平くんの首がにゅっと伸びてきて、綿菓子の断片を攫った。すぐ近くまで寄った茶色い髪から、お祭りの匂いがする。
 それから目が合って、唇を合わせた。ザラメの甘さ。ごく自然な流れだ。

「……なんか、いけないことしてるみたいなんだけど」
「夜だしな。ちょっとは見てる奴とかも居たりして」
「誰も気にしてないんじゃないの?」

 それからもう一度、二度。角度を変えて、三度目に舌が入った。綿菓子で粘ついた口内が、強引にかき回される感じ。私が引いたら、その分だけ追い詰めてくる。
 唇を離した後の京平くんは、目が少し変わっていた。体を求めてくる予兆。自分からお祭りに行こうって言っておいて、そんな目をするのかと思うと、ほんの少し幻滅したりもする。たとえばこんな時、「彼」だったらどうしただろう。私は? なんて。

「このまま、どっか行きたい」

 少しだけ殺した声で、京平くんは囁くように言った。「どこか」ってどこ? とは聞けなかった。
 私は、ワンピースに合わせて紺色に塗った爪を見下ろしながら、手を組んだり離したりしてみる。何かためらうように。空が暗くて、爪はほとんど真っ黒に見えた。

「夏祭りは?」
「……さあ? 少なくとも俺は、この空気だけで充分なんだけど」

 お祭りって、参加するんじゃなくて見るもんだし。俺みたいな普通の人間にとっては。

 分かりやすい彼の回答に笑みを零した。
 暗闇の中だと、ときどき京平くんと「彼」が、交じり合って見えたりする。私はその瞬間を待ち望んでいる。

「それで、どこに行くの?」
「俺ん家は? 今日は両親いないし、焼きそば温めて食えるけど」
「……うん、それもいいかもね」

 嬉しそうに京平くんが笑う。立ち上がって、私に手を差し伸べる。掴んだてのひらは、やっぱりちょっとだけ湿っていた。
 喧騒に、光に背を向けて、暗い方へ歩き出す。遠ざかれば遠ざかるほど、日常とはかけ離れた現実が、背中のまんなかに突き刺さった。

「海に行きたいな」

 ぽつんと、前触れもなく呟いてみた。やっぱり彼は反応してくれた。

「何、急に?」
「ふとそう思ったの。ここ数年、海なんて行ったことないなって思って」
「そっか。まあ俺も、確かに行ってないかな。部活とかで忙しかったし」

 京平くんは歩みを止めて、私の顔を覗き込んだ。

「じゃあ今度行こうよ。どっかの海水浴場とか」
「受験勉強は? それに、まだ部活に顔出してるんでしょ?」
「息抜き息抜き。部活の方だって、受験生にまで出ろって強要されてるわけじゃないから平気だって」

 相変わらずの大雑把なポジティブシンキングに、思わず笑った。でも彼は、なんだかんだ言いつつ乗り切ってしまえるタイプの人だと思う。ごく自然に捉えて。
 
「な、約束」

 私の目の前に、骨ばった小指が差し出される。
 ときどき思う。京平くんは、私との約束とか、そんな形に残るものを求めていると。けれども私は何一つ与えてあげられない。最初からそういう約束だったし、一度でもそれを違えてしまえば、私は「彼」への想いも含めて、もっと卑怯者になる気がするからだ。
 一瞬だけ、ためらった。その中途半端に空いた間に、きっと京平くんは気付いた。私は取り繕うように笑って、小指を同じ高さまで上げようとした瞬間、道路の向こう側に、おそらく、見てはいけないものを見た。
 私の目が見開かれて、京平くんが視線を追う。
 そして気付いた。
 きっと。

「――先生」

 高校を卒業してしまっても、大学に入ってもずっと、拭いきれずに燻り続けた想い人。
 帰り際、ときどき電車で見かける以外に、どれだけぶりに会えたのだろう。何日か、何週間か、何ヶ月か。

 京平くんと絡めかけた小指が外れるのを、私は意識の隅っこで感じていた。
 私の声に振り返った「彼」が、その瞳が私を捉える。彼の唇が「上村?」と動くのを見た瞬間、気付いたら駆け寄っていた。紺色のワンピースの裾が、翻って足に絡みついた。

 結局のところ、私を突き動かせるのはただ一人なのかもしれない。

「里佳!」

 呼び止める声に、振り返った。京平くんの顔が歪んでいた。
 ただ「彼」だけが上手く事情を把握できていなくて、その柔和な顔が柔らかに崩れる。

「上村、久しぶりだな。どうした?」

 それから彼は道路の向こう側に居る京平くんを見て、

「彼氏か?」

 と尋ねた。
 私は答えられなかった。どう答えても、何もかもに対して不誠実な答えになる気がした。ただ、私はよっぽどひどく困惑した表情をしていたらしくて、彼の顔の方が心配そうに沈む。それでも、何も声にはできなかった。
 その間に、京平くんも道路を渡ってきて。私の顔を見て、先生と同じような表情になった。

 先生は知らなくても、京平くんはこの人の存在を知っているかもしれない。

「森先生?」

 私の顔が泣きそうに歪むのを、闇が隠してくれれば。月が消えてしまえば。
 瞳は全く濡れなかったけれど、ただ不自然な表情を、きっと見られてしまった。そしておそらく、京平くんは気付いた。

 私の最愛の人だけが何も知らない。


2006/05/14
飴村