第十話 / つながり


 今日の質問は全部で二件。次の定期試験まで一ヶ月以上あることや、自分の受け持ちが一、二年生だけであることから言っても妥当な数だろう。今日は、昼休みに二年生の都築、放課後に三年の中居がやってきて、ほとんど同じように「ここが分かりません」と参考書を片手にのたまった。
 都築は相変わらずだ。今日もまた男を連れて質問にやってくる。分からないところを男に聞いて、その男が分からなかったらここへ来る、というのが既に一種のパターン化したようだ。にこにことそれに付き合ってやっている児玉和登という男に賛辞を送ってやりたい気分にもなる。
 男をとっかえひっかえという噂は教職員にまで及んでいる都築だが、質問の時に伴うのはいつも児玉だ。その意味を推察できないほど子供でもないが、この二人の関係性は一体どうなっているのか、未だに分からない。
 もうすぐ三十になるけれど、たかだかその程度生きたところで、分かる事はほんの少しなのだとようやく諦めがつくようになってきた。

 しかし、話の主軸はこの二人ではない。児玉と都築はあくまでサラダ程度。加えて言うなら中居はスープのようなもので、メインディッシュはまた別だった。

 女子バスケ部の顧問と部員という関係もあってか、一年生から中居はひどく懐いてきていた。そして都築と同じように、いつでも同じ人間を伴って質問に来ていた。上村さくら。一昨年卒業した上村里佳の妹だと、一応は聞いていた。声に出しては言えないが、あまり似ていない姉妹だ。

「森せんせ、私もう駄目です」

 瀕死の魚のような声を冗談めかして出しながら、中居はにこにこと笑っていた。その笑顔が児玉とかぶる。上村は後ろで静かにしていた。

「何がだ」
「積分全般。微分までは楽勝だったのに、積分はもう、何をすればいいのかさっぱり分かりません。鬼門ですよ鬼門」
「……上村は?」
「え、あ、その……似たようなものです」

 控えめに苦笑して、中居の斜め後ろに引っ込んだ。
 やっぱりあの姉とは似ても似つかない。

「全般じゃ対処のしようがないな。解けない問題は?」
「ここの問3と5と6と9と10です」
「――中居、お前はもう立派な受験生なんだぞ」
「ですから質問に来てます!」
「立派な受験生の打率が五割でどうする。まずいぞ」
「それなんですよ。ですから、部活を引退してからも頑張ってるつもりなんですけど……」

 中居は髪も茶色いし、砕けた喋り方をするけれども、少なくとも部活に関してはひどく真面目だった。それを知っているだけに、つい甘くなる。わざとらしくため息をつき、そうして自分の仕事を犠牲にして時間を割くのだ。
 何の利益にもならないと分かっているのに。いつまでなら、こんなことが出来るだろう。

「問3、見せてみろ」

 言うと、中居はいつものように満面の笑みを見せた。

「ありがとうございます」

 中居が分からないと言った問題は、最初の式の変形が面倒だが、一度然るべき形にしてしまえば後は地道に基礎を繰り返すだけでどうにかなるような問題ばかりで。中居が苦い顔をしながら途中式と格闘するのを、上村はその隣でじっと見つめていた。
 姉と同じなのは、髪かな。
 ぼんやりと、けれどもまじまじと上村を眺めていることに気付いて、ふと居心地が悪くなる。

「上村、お姉さんは元気か?」

 何の気なしに発したつもりの言葉だったが、それを聞いた上村の表情は静かに凍った。
 何かまずいことでもあったんだろうか。あの時は元気そうだったけれど。

「夏祭りの時、見かけたんだ。時々電車でも見かけるけど、話す機会もないから、どうしてるのかよく分からないんだ。まだ実家住まいだろう?」
「実家ですけど……その、あんまり会わないんです」
「そうなのか?」
「はい。帰宅時間が違うので」

 帰宅時間が違うといったって、家の中で遭遇しないというのはおかしな話だとは思うが。
 会話を交わす間も、上村が居心地悪そうにしていたのを見て、未だにこの姉妹の確執は続いているのだと理解した。

『私、妹にはきっと恨まれているから』

 そう言って、寂しげに笑った上村里佳。今までに見た生徒の中でも、彼女以上に美しく笑う人間は居なかった。もしかすると、これからも居ないのかもしれない。

『でも優しい子なんですよ、すごく。森先生も、あの子が入学してきたらきっと気にいるから』

 あの上村里佳にそこまで言わせる妹というのはどんな人間かと思えば、あまりにも平凡な姿に戸惑った。落胆したのかもしれない。
 明るい中居の影に隠れるようにして、いつも控えめに笑っている。時々廊下で見かけると、甲高い声でクラスメイトと騒いでいる姿を見かけることもあった。けれども、少なくとも自分が目の前にできるのは、このよそ行き用の顔だけだ。
 優しい子? 大人しいだけじゃないのか、って。

「そういえば、夏祭りで見かけたとき、男連れだったんだよな。だけど、山田じゃなかったんだよ。ほら、確か、卒業した時も付き合ってたはずだろう? どうしたのか知らないか?」
「――山田先輩とは、卒業して一年ぐらいしてから別れたみたいです。夏祭りに一緒だった男の人とも別れたはずですよ」
「……そうか」

 都築とは別の意味で、男の噂が多かった生徒だった。そんなことを思い出していた。
 来る者拒まず。ただし長続きはしない。一月二月付き合って、すぐに別れてを繰り返していた。遊んでいるというよりも、誰かを探しているようにも見えた。

『好きだって言ってもらえて嬉しかった。私も好きになれるかもしれないって、何度も思ったんです。それなのに、まだ、あんなにもたくさんの人を傷つけたのに、私は私の一番を変えられなかったんです』

 一番って、誰だ?
 そう聞くと、いつだって寂しげに笑って「内緒です」と言っていた。彼女は自分にひどく懐いていたし、何でも話すような節があったから、言わないのはよっぽどのことなのかもしれない。おそらく彼女は、苦しい恋をしているのだろう。
 そんな彼女が高校最後に付き合っていたのが、当時の生徒会長で山田彰宏という男だ。半年近くももったということで、もしかするとようやく「一番」を塗り替える人間が現れたのかもしれない、と密かに喜んでいたはずだった。

 目の前の上村は、影を落とした表情をしている。中居は、面倒そうな途中式を必死に広げていた。
 時間は確実に過ぎていて、もう、目の前に上村里佳は居ない。

「『先生、』」

 もう、居ないのだけれど。

「『指輪、まだしてるんですね』」

 そう、呟くように言った上村の声と、姉の声が記憶の内側でだぶった。
 はっとなって顔を上げると、上村と目が合う。その目だけは、姉によく似ていた。

「二週間ぐらい前、法事で休んでませんでしたか? あれって奥さんのですよね?」
「ん、ああ、もう五年経つからな」

 共に大学生活を送り、互いにそれぞれの道を選んだ。ようやく軌道に乗り始めたところで、周囲に認めてもらって結婚をした。
 生涯この人以外に居ない、要らない、と真剣に思った。挫けることがあっても、間違うことがあっても、永遠にこの人の傍に居たいと願った。それほど強く、偽りなく望んだけれど。

「もう、事故からそんなに経ってるなら、外してもいいんじゃないですか?」

 問題から顔を上げて、中居が事もなげに言う。

『まだ、外せないんですか?』

 上村里佳だったら、もっと正確にこちらの気持ちを言い当てただろう。外さないのではなくて、外せないのだ。まだ、惜しくて。
 あれほど強く誰かを想えるのは、生涯にただ一度きりなのかもしれない。一度きりでいい。失われてしまった後でも、もし痛みが亡くした人の存在を思い出させるのであれば、一生痛んだままでも構わなかった。それほどに愛した人が居るというのは、自分にとってはかけがえのない誇りだった。
 左手の薬指。その指輪を外すとうのは、その誇りをも捨てることになってしまいそうで。
 月日を重ねるごとに、愛した人の面影を思い出せなくなる。結局のところ、ただしがみついて、抗いたかっただけなのかもしれない。

「――無理だよ」

 そう言って笑うと、中居が興味を失ったように「ふぅん」と呟き、数学を再開した。上村は変わらない。その年頃の娘にしては澄んだ瞳で、じっとこちらを見ていた。

『ねえ、先生、大切な人を忘れられないってことは幸せだと思いますか?』

 無邪気に、上村里佳は残酷な問を投げかけた。あの目。

『……分からないな。忘れたくない人は居るけど、忘れられないことが幸せかどうか分からない』

 思い出しては心が温まることもある。けれども、切ない痛みを伴う。だって、彼女は永遠に失われてしまったのだから。取り返しようもなければ、塗り替えようもない。
 鈍く暖かな痛みが込みあげて、思わず目を閉じた。

「『先生?』」

 目を開けても、世界は変わらない。分かっていた。失われた人も、上村里佳も、そこには居ないのだと。

「……上村の声は、お姉さんと似てるな」

 そう言うと、上村はほんの少し驚いた顔をした。

「そんなこと、初めて言われました」
「そうか? そんな気がしたんだ」

『まだ、そこに居るんですか?』

 まだ出られないんだ、どうすればいいと思う?
 まだ外せないんだ。こんな、ちっぽけなプラチナのリングひとつ。女々しいと思うかもしれない、けれども一度もお前は笑わなかったな、そういえば。
 上村里佳なら、自分をここから連れ出してくれるかもしれないと思っていた。滑り込むようにして現れて、気付けばずっと傍にいた。けれども、彼女は佇むだけで、何もしなかった。そうやってひゅっと消えた。

 手を離したのは、どちらが先だったのか分からないけれど。

「姉が、今でも気にしているんです」
「……? 何を?」
「高校時代のことで、今でも聞かれるのは森先生のことぐらいなんです。森先生はどうしてる? って」
「そんなに心配な教師だったのかね」
「たぶん、そういう意味じゃないと思いますよ。姉は、昔からほんとうに、森先生のことが好きみたいでしたから」

『先生が高校生だったらいいのに。ときどきそう思うんです』

 無理だよ。
 あの時、言葉にできなかった台詞は、今なら声に出すことだって出来るのかもしれない。忘れられないことが幸せなのかどうか、それなりの答えを出すことが出来るかもしれない。

「今でも、夏祭りの日のこと気にしてるみたいなんです。もしよかったら、いつか会ってあげてください。誤解されたままが嫌だって呟いてましたよ」
「誤解?」
「……姉の言うことだから、よく分かりませんけど」

 長い途中式を経て、ようやく中居は答えを出した。面倒で、嫌になるような、長い道。
 途中式を間違えたら、もう正しい答えは出ないと思うだろうか。答えを求めること自体、間違えているのかもしれないけれど。

「さくら、じゃあ帰ろっか。森先生、ありがとうございました」
「ああ、お疲れ様。勉強頑張れよ」
「はい」

 上村は、やはりいつもの笑顔をつくって会釈をした。
 やっぱり似ていない。

「――上村、お姉さんによろしくな」

 上手く言えないけれど、言葉にすると彼女との距離が益々広がったような気がした。


2006/06/06
飴村