第十一話 / しあわせを願う人


「就職とか考えたくないよー」

 そう吐き出して、両手を投げ出す格好でテーブルに顎をのせてずるずると座り込んだ香夏子の向かい側に腰を下ろす。無造作に置かれたパイプ椅子は生暖かくて、気持ち悪かった。
 ジーワジーワとうざったい蝉の声が、暑苦しい研究室の窓の外から降り注いでくる。緑の葉は、真っ青な空にとてもよく映える。空を白い雲がゆっくりと流れていく。ファイルやら文献やらが山積みになったテーブルには、空になったペットボトルが数本転がっていて、コースターの上には麦茶の入ったグラスが汗をかいている。

「こう暑いと、ほんとうにやになるよね」
「漸く期末が終わったと思ったら、集中講義ってどういうことー……もーいや」
「好きでやってんだから、文句言わないの」
「集中講義は好きでやってるわけじゃありませんー」

 香夏子が一際大きな声でそう言いながらトートバッグから取り出したノートを広げる。ノートの間から、プリントやら先ほどまで受けていた期末テストの問題が落ちる。問題と言っても、ただ文章が書いてあるだけなのだが。
 大学に入ってから感じたのだが、実は問題文が潔結なものの方が、実際答えるのは難しいようだ。ダラダラと長いものほど、問題文そのものにヒントが詰まっている。

「三問目の記述、出来た?」
「微妙」

 ノートの中に何か答えのヒントを見つけようと、香夏子の手が慌しくページをめくるけれども、それらしいものは見つけられない。

「あれって、明らかに応用問題だよね?」
「うん、そうだね」
「……やっぱ直接答えに結びつくのはないみたい……ちょっとやばいかも」

 うー、と唸り声を上げながら、ノートとにらめっこをしている香夏子の前から、氷が半分は溶けたグラスを持ち上げる。薄まった麦茶は冷たいけれども、味がはっきりしない。
 立ち上がって、狭い研究室の中の小さい冷蔵庫を開ける。ブーン、と鈍い音がして、薄汚れた冷蔵庫を開けると、中には2Lと1.5Lペットボトルが数本入っている。どれも中途半端に残っている。

「香夏子、麦茶とコーラと午後ティーどれがいい?」
「んーとね、コーラ」

 プシュ、と音がするかと思いきや、開けたそれはまったく音もない。

「炭酸抜けてそうだけど」
「じゃ午後ティー」
「わかった」

 出っぱなしだったグラスを引っ込めて、冷蔵庫の上の棚をあさって、紙コップを取り出して、それに午後ティーを注ぎ込む。タポタポと間抜けな音がして、白いコップが紅い液体で満たされていく。

「はい」
「ありがとー」

 差し出した紙コップを受け取って、香夏子とテーブルを挟んで座り込むと、蒸し暑い研究室の中に、開かれた窓から涼しい風が入り込んできた。エアコンは設置されているものの、最後に動かしたのはいつなのか、埃がたまって、部屋の隅でコンセントを抜かれている。ジメジメとしてやたら温度の高い研究室は、ダルさを誘う。大きな欠伸を一つしたときだった。

「何だ、川島、それに佐々木も」
「あ、香夏子も優子も、やっぱりここにいた! ケータイに出ろよ!」

 ガチャリ、とドアノブを回す音がして入ってきたのは、四十代後半の教授と、寝癖なんだかオシャレなんだか分からない頭をした潤一だった。

「波木教授、お邪魔してまーっす」
「あ、潤一だ。今日来てたんだ」

 研究室の主、波木教授は微笑んで、抱えていた大量の答案用紙を、既にものの置き場などない机の上に重ねる。

「何で電話でねーんだよ」
「だってさっきまでテスト中だったんだもん」
「終わったらすぐ確認しろよな。俺ラウンジで超暇してたんだから」

 文句をぶつぶつ言いながら壁際からパイプ椅子を持って座る潤一をほぼ無視して、香夏子が教授のところに詰め寄る。

「波木先生きいてくださいよ、さっきまでテストだったんですけど」
「何飲んでるの?」
「午後ティー」
「俺にもちょーだい」
「自分で用意しなよ」

 つめてーの、とぶつぶつ文句を零しながら潤一を尻目に、鞄の中からケータイを取り出して電源を入れる。機械音がして、画面が切り替わる。すると着信が3、メールが2入ってる。

「うわ、全部潤一じゃん……」
「だっておまえら出ねーんだもん」

 同じくトートから取り出して電源を入れた香夏子のケータイが、間をおかずに、軽快な音楽を発する。ノートを持ったまま教授と話しこんでいた香夏子が振り返って、慌ててケータイを開く。パカ、という間抜けな音のあとに、電子音がいくつか響いて、とまった。

「芳文からだ」
「なんだって?」
「ごめん、優子。私帰るね」
「あ、うん。構わないけど」
「すみません波木先生、また後で来ますね。夏休み中は研究室にいますか?」
「毎日とはいかないけれども、月水木はいるよ」
「わかりました。じゃあ優子、潤一、またあとでね。先生、失礼します」

 鞄を掴んで、慌しく出て行った香夏子を見送ると、三人だけになってしまった研究室は、途端に静かになったような気がした。さっきまで香夏子と私だけだったときよりも。

「芳文は今日何処にいるんだ?」
「わかんない。教育課のどっかにいるんじゃないかな……この間まで実習だったじゃん。そのレポートとか色々あるとか言ってたよ」
「あー教育実習かー。芳文は先生になるんだもんな……大変だなー」

 そう他人事のように言った潤一自身も、課題やレポート、テストの量では、人の心配などしている暇などないはずだ。
 ふと思い出したかのように、潤一がぼそりと呟いた。

「なんか、さ」
「ん?」
「強く想える人に出会えたって、いうの。羨ましくも思う」

 潤一の言葉には、羨望と嫉妬と、感嘆と、色々混じっていた。去年から付き合っていた子と別れたのは、四月だったか。同じ法学部の子だったと聞いていた。彼女が潤一を本気で好いていたことは知っていたけれども、結局終わってしまった。潤一がイマイチ、本気になれなかったからだ。いつか酒の席で、そう零していた。

「……そうだね」
「卒業してからにしろって、言われたんだってさ」
「ああ……親に?」

 潤一が頷く。
 芳文が香夏子にプロポーズしたことは知っている。同じサークルで、こうしていつもつるむ六人の中で、二人が互いを選んだのは、もう随分と昔になる。最初から、互いしかいなかったかのように、いつの間にか二人が一緒にいることが当たり前になっていって。
 残った四人、私と潤一、早々にテストが終わって、今は地元に帰っている歩と、最近はバイトばかりで講義にあまり姿を見せなくなった雅史は、二人の幸せを本当に願っていた。心から喜んで、その話をきいた日には、皆で大学に一番近い、芳文のアパートに酒瓶を大量に持って押しかけて、香夏子を呼び出し、盛大に祝った。

「ま、当然と言えば当然だけどさ」
「でもきっと、卒業したら、ふたりともある程度仕事が落ち着くまで、とか言い出すんだよ。親って」
「親心、というものだよ」

 波木教授が柔和な笑みを浮かべて言った。
 社会学専門のこの教授の教室に居座っているのだって、サークル繋がりだ。私と香夏子は経済学専攻だし、歩は英文科、芳文は教育科、雅史一人理系の理学科で、潤一は法学部だ。三年目からそれぞれ専攻別の科目が中心になって、ほとんどサークル以外では顔を合わせなくなっていった。本来なら、各々関係ない授業をとっている私たちが、教授の研究室に入り浸っているのはおかしい。
 潤一が首を傾げながら問う。

「そういえば、先生もお子さんいらっしゃるんでしたよね? 確か……高校生?」
「いや、今年中学生になったよ。生意気盛り」
「全然違ったわ。ていうと、十三? あー……それは反抗期真っ盛りってとこですか……お疲れさまです」

 スキーサークルとなれば、夏でも冬でも、何処でも兎に角雪を求めて合宿が組まれるのだけれども、こう専門が忙しくなると、まとまって休みが取りづらくなる。今年の夏は、涼しい……むしろ寒い山で過ごせそうにない。今年は生憎、この殺人的な太陽光線の下で過ごすしかなさそうだ。うざったい蝉の声が、開けっ放しの窓から流れ込んでくる。
 教授の手が、机の隅の写真たてをなぞる。教授の、本とファイルとその他諸々で溢れかえった机の片隅に家族の写真がおいてある。優しそうな奥さんと、小学生くらいの娘が笑う写真。雪山を背景に、二人ともスキーウェアを着込んでいる。

「先生は、娘さんが、香夏子と同じ状況にあったら、許しますか?」

 親心、と教授は言ったけれども、それは酷く複雑なものだった。
 子供の幸せを願うのだったら、今あんなに幸せそうに笑う二人の幸せを認めないということは、矛盾なんじゃないだろうか。別に子供を産みたいと言っているわけではない。一緒になりたいとそう言っているんだから、認めてやってもいいように思う。

「状況によるけれども……そうだな、許さないな」
「何でですか? 一年のときからあの二人、ずっと付き合ってますし、そりゃあ、偶に喧嘩くらいしますけど、はっきり言って、あの二人ほどお似合いな人、知りませんよ私」
「そういう問題じゃなくてね……早急に、結論を出さなくても、良いんじゃないかと思うんだよ」

 そういって、教授はまた笑った。早急って。出会ってすぐ、出来ちゃったで結婚するんじゃないんだから、別にいいじゃないか。年月が長くなれば、その分愛が深まるのだろうか? けれども、憎みあいながら、それでも夫婦をやめない人たちを知っている――両親だ。
 自分たちのようになるな、ということなのだろうか。先を予測できないのなんて、同じなのに。

「納得出来ないって顔だね、川島」
「だって出来ないんですもん」

 そう言いながら、でも、二人が永遠に続くとは思えない。でもやっぱり、あの二人が互いをなくして、それで笑っている姿を想像出来ない。にも関わらず、でもずっと続くという関係がわからない。
 それでも、一緒にいたいというのならば、そうさせてあげればいいのに。そもそもどうして許可が必要なんだかわからない。終わったら終わったで、中学生じゃあるまいし、きちんと別れればいいじゃないか。

「親っていうのは、子供に辛い思いはさせたくないんだよ」
「それって、結婚が上手くいかなかったら、っていうことですか?」
「まぁ……それも一つだね」
「でも先生、結婚前に上手くいったからって、結婚後も上手く行くことの保障にはならないじゃないですか。上手くいくための法則があるわけでもなし、十年後まで恋人として上手く二人がやってるなら、それは明日結婚してしまったって、同じだったということじゃないんですか?」

 潤一が会話に割って入る。
 わからない。幸せを望みながら、二人の両親は一度だって、この二人がこんなに幸せそうに笑って、一緒に在るのを見たことがあるのだろうか?もう二年半近くずっと二人が一緒にいるのを見てきた私たちが毎日見てきたものの断片すら、見てもいないのに。

「結婚は、そう簡単なことではないんだよ」

 そう言いきった教授は、やっぱり笑みを浮かべていた。何それ。何でもよく分かってますよ、という理解者の顔だ。でも本当に?

「……経験者の忠告、ですか?」

 潤一の言葉に、教授はやっぱり、笑みを浮かべるだけだった。そうすることによって、質問の追従を許さないのかもしれない。卑怯だな、大人って。

 幸せを願いながら、その実、幸せなんて信じてないんだ。
 自分達の基準で測って定めた「幸せ」しか認めない。だから実際、どれほど彼らが幸せかなんていうのは、まるで問題じゃないんだ。問題は、自分達のお眼鏡に適うかどうかであって。
 だから数年後、結婚しないままでいたら、二人の両親はきっと二人に言うのだろう。そろそろ良い人を見つけて、と。家庭を持って欲しい、と。
 つまり適齢期というものがあって、そのとき出会って結婚しようという結論に達するのでなければならない、そういうことだろう。

「認めたくない、のかもしれないって、思うんですよ」
「何を?」
「その年で、運命の人に出会う、なんて」
「早いとか遅いとかあんのか?」
「本当はないと思うよ。ただ、本人のそういう気持ちっていうのが、他人の理解に追いつかないんじゃないかな。本人達が本気でそう思っていても、周りが違う違うって否定してしまうと、ああ、そうなのかな……って本人達もなっちゃって」
「でもそこで終わったら、だから運命の人じゃないってことになるんじゃねーの?」
「予言の自己成就だよ」

 教授の静かな声に、潤一共々、驚いて振り返った。

「周りが否定しなければ、二人はそうなったかもしれないのに、否定したことが起因して、その関係性は終わってしまった、と」
「あ、それきいたことあります。予言内容が直接予言に影響をあたえるって奴ですよね」
「おまえは東大受からないって言われたから、一生懸命勉強して受かった、みたいに?」
「それは予言の自己破綻。だからその逆」
「へー……」

 感心したように潤一がパイプ椅子の背にもたれかかった。

「親がそうやって、反対するのは、それを狙ってってことですか?」
「……そうじゃないでしょ」

 香夏子や芳文の両親のその思いは多分、もっとあたたかい感情からくる。少なくとも当人たちにとっては、わが子を大切に思うからこその言葉で。
 否定したいんじゃなくて、違ったときの最愛の子供の傷つく顔が怖いのかもしれない。だから全てを理解した顔をして、それでももう少し考えてみましょう、と笑うのだきっと。そしてその結果、破綻が訪れたら、ほら、こうなるって決まっていたのよ。傷つかなくてよかった、と言うのだろう。破綻のきっかけの一つを自らが作っておきながら。

「子の親離れより、親の子離れのほうが難しいのかもしれませんね」

 吸い込んだ空気の温さが気持ち悪い。タポタポという音がして、潤一がコップに麦茶を潅ぎ込んでいる。
 教授が答案用紙の角をそろえながら、複雑そうに零した。

「強い愛情は、半分鎖みたいなものだからね」

 本当に、そうだ。

 *

「すっごく綺麗だよ、香夏子!」
「ホント。超美人。素敵過ぎて、涙出てきたよー」

 歩と二人、傍まで駆け寄ってお祝いの言葉をかけた香夏子は、遠くから見るよりもはるかに綺麗だった。プロの手によって施された化粧よりも、白いドレスよりも、何よりもその幸せそうな笑みが綺麗で。心底見惚れた。

「ありがとう」
「もーっ香夏子可愛い! 絶対幸せになってね!」
「もう充分幸せだよ」
「じゃあもっともっと幸せになってね!」

 歩が涙声になりながら香夏子を見上げる。香夏子はやっぱり、幸せそうに笑う。

「優子」

 笑顔の香夏子が振り返って、微笑んだ。人が、これほどまで優しげに笑えるものなのだと。笑顔や幸せは伝染するものなのだろか。それとも、香夏子が幸せなのが、本当に嬉しいからか。つれらるようにして笑顔になる。

「有り難うね」
「んーん。ホントはもっと前に、こうなれたのに」

 私たち四人は、一度も反対しなかった。卒業して、芳文が地元の高校の新任教員になって、香夏子は大手化粧品会社の広報に、職を見つけることが出来た。私といえば、似たような会社の事務の仕事になんとかありつけて、潤一は大学院に進んだ。歩は小さな出版社に身をおいている。雅史は何故か、とあるNGOで働くことを選んだ。一番金にがめつい奴だったのに。
 あの夏の暑い研究室での一日からずっと、変わりなく香夏子と芳文は付き合い続けた。就職してもそれは変わらず、私たちが皆友達であり続けたように、二人にとっての一番は互いであり続けた。
 そうして漸く、二人の両親は結婚に許しを出した。就職が決まって、新しい職場にそれぞれ身をおいて、約一年が経とうとしていた。春先の空気は冷えて、冷たくて。三月、芳文がプロポーズしてから、もう少しで三年になる。やっとたどりついたこの式だった。
 案の定、最初の条件は卒業だったのに、卒業して直ぐの結婚は許可が下りず、「もう少し、新しい生活環境に慣れてから」という新しい条件が提示された。申し合わせたように、二人の両親がそれぞれ同じことを言って寄越した。

「充分幸せだよ、私」
「香夏子が幸せなら私も幸せだよ。潤一も雅史も、控え室には女だけ入っていいって言われたから、外にいるけど、この格好の香夏子みたらきっと驚くよ」
「じゃあ、びっくりした二人の顔、ちゃんと写真に収めてね」
「もち!」

 涙と歓声と拍手とで、式会場は溢れかえって。
 教会の外、笑顔で二人を囲む人たちの中に、香夏子の両親に、芳文の両親を見つける。泣きはらしたのだろうか、目が赤い。けれども皆その顔には笑顔があって。幸せなんだと思った。それとも、そう自身に言い聞かせているのだろうか。
 大学の同じ学部の仲間に、サークルの先輩に後輩。その中に混じって、潤一と雅史の姿もある。香夏子と芳文それぞれの高校、中学時代の友人に親族。芳文の生徒らしき高校生も。波木教授の姿も集団の中にあった。隣には写真でしか知らなかった奥さんと、今年高校に入ったときいていた教授の娘さんもいた。

 一際大きな歓声が上がって、淡い色の花をまとめてつくったブーケが、空に舞い上がるのを、他人事のように見ていた。
 優子、と名前を呼ばれて、はっと見上げた青空に、花が舞う。

 幸せが、こんな風に空から降ってこないことを、私は知っているけれども。空に舞ったブーケを取るために、手を伸ばした。


2006/06/10
工藤