第十二話 / 砂の城


 その日、芳文に掛けるべき言葉なんて、見つかるはずもなくて。
 泣きはらした目をしたのは、残された夫ではなく、まだ若い娘を亡くした両親と、彼女の級友たちの方だった。会場は嗚咽とすすり泣く声につつまれて、現実についていけない俺は、それでも人の泣く姿を直視できず、自分の足元を睨みつけていた。
 それはあまりにも突然に、しかも唐突に押し付けられた別れだった。年を重ねれば、それはいつかくるであろうものだったけれども、花に埋もれて横たわる香夏子は、もう二度と目をあけることはなくて、その時間は彼女の二十五の誕生日を迎える前に止まってしまって、もう動くことはない。

 六人で笑い合ったあの日々は本当なのに、もう瞼を開けることのない香夏子を見ていたら、全てが俺の夢だったかのように思えてしまった。
 楽しくて、幸せで、そういう色で塗りつぶされたキャンバスだった。それは気のせいじゃなくて、確かに本当だったのに。
 一人が永久に消え去ったことで、確かにそこにあったはずのものは、いとも容易く崩壊した。

 俺は親友とまで呼んだ男の顔を直視できなかった。

「ご注文はおきまりですかー?」

 アルバイトの店員の、耳につくわざとらしい声に顔を上げると、同じくらいわざとらしい笑みがあった。
 狭い半個室の居酒屋の部屋は、流行の歌手の歌が流れていて、両隣から宴会の声が聞こえてくる。ほぼ叫び声のような笑い声や、大声で店員を呼ぶ声。合わさるとただの雑音にしか聞こえない。
 迷惑なくらい煩いその空間で、気味の悪いくらい静まって、雅史と二人、木製のテーブルを挟んで座っていた。
 口を開こうとしない雅史に代わって、ビールを二人分頼む。文句の声は上がらなかったから、それは承諾ととった。ビールなんていう気分でもなかったけれども、咄嗟に思い浮かばない。便利な言葉だ。「とりあえず生」なんて。

「お待たせしましたー、中生になります。お料理の方お決まりでしたらお伺いしますが、」

 メニューを開きすらしないまま、テーブルを挟んで無口に座っている喪服の男二人は、彼女の目にはさぞかし不気味に映っただろう。バイトの女は困ったように、数秒そうしていて、それから、あの、と口を開いたが、雅史の声が遮った。

「枝豆と、なんこつ、串焼きの盛り合わせ、冷奴…とりあえず、それを」
「あ、はい。……枝豆、なんこつのから揚げ、冷奴と…串焼きの盛り合わせは、塩とタレが御座いますが、どちらに致しましょう?」
「タレで」
「畏まりました」

 営業用のつくり笑いを浮かべて頭を下げた店員がいなくなると、やっぱり周りの喧騒と、場違いな明るい恋の歌が頭上から降ってきた。
 迷いながらジョッキに手を伸ばして、カンパイ、なんて何にすればいいのかわからなくて、ジョッキを口に運ぶかどうするか迷っていると、反対側から雅史の手が伸びてきてもう一つのジョッキをつかんで、カチン、と厚い安物のガラスがぶつかり合うことがした。揺れたビールの入ったジョッキの表面から白い泡が跳ねた。

「乾杯」
「……乾杯」

 雅史の声にこたえるようにして、乾杯と返した。にこりともしないで、雅史はジョッキを傾けて、次にテーブルの上に置かれたときには中身は半分になっていた。

「……」

 何か声をかけようと思って見上げた雅史は、面白くもなさそうにビールを仰いでいた。
 ビールの残りが半分を切ったころ、最初に頼んだつまみが次々と運ばれてきた。黒い皿に盛られたなんこつのから揚げに手を伸ばして、脇に添えられたレモンを上にしぼりかける。
 手についたレモンの汁を、手元のおしぼりで拭った。レモン特有に感触がまだ指先に残る。

「優子たち、泣いてたな」

 雑音は幾らでも降り注ぐのに、それでも雅史との間の沈黙が重くて、目を真っ赤にしていた優子を思い出して、思わずその名前を呟いた。

「……ああ」
「歩、来なかったな」
「間に合わないって言ってたからな。今夜遅くか、明日朝になるって言ってた」

 慌しくメールを交わしたとき、歩はどうしても仕事の都合がつかなくて、遅れていく、と雅史にメールを返していた。
 通夜に間に合った優子、雅史と俺は、キレイに化粧の施された、目を瞑ったままの香夏子に会うことが出来たけれども、歩はもしかしたら、最後の別れにも間に合わないかもしれない。
 飲んでいくか、という誘いに、優子は首を振って、今夜中に帰らなきゃならないと答えた。休みがとれたのは今日一日だけだと。
 好き勝手に遊びまわっていた学生時代とは何もかもが違っていた。

「皆、すっかり変わったな……社会人か……」
「そらぁ、変わるだろうよ」

 枝豆の殻が空いた小皿に投げ捨てられる。
 白いシャツの下から覗いた雅史の両腕は、真っ黒に日焼けしている。

「おまえ、卒論書きながらも、同じようなこと言ってたよな」
「そうだっけ?」
「うん。皆バラバラかーって。変わっちゃうのかーって」

 雅史が笑うけれども、いやな笑いじゃなかった。

『潤一は、怖いだけじゃないの』

 煮え切らない俺に、美里は愛想が尽きたらしく、二人で選んだ銀色の指輪を突っ返した。
 彼女の言葉は、胸を刺したその棘は、確実に痛いところをついていた。
 指輪を返されたのには傷ついたけれども、こうして、また振り出しに戻ったのだと思うと、安心している自分が確かに存在した。

 ああ、これで俺はまた、もとに戻ったのだと。

「そんなにいやか?」
「……何が?」
「変わるのがだよ」

 空になったビールのジョッキの側面を撫でながら、俺は雅史の問いに答えられなかった。
 冷房が気持ちよく効いた室内で、ジョッキ一杯分のビールで、外を歩いていてかいた汗はすっかり消え去った。気温にも、温度にも、大抵の環境になんて、人は意外と容易く慣れるものだけれども。変化のその折り目折り目には、拭えない不安がいつだってあった。

 今日が幸せ過ぎるから、多分、明日が怖い。
 変わらない、幸せな今日がそのまま続けばいいとそう思っていたから、だから、別のルーティーンが怖い。慣れた日常の繰り返しは、必ず安心を意味したものだから。
 慣れるとわかっているから、だから別離は怖くないなんて、そんなことあるはずもなくて。

「おまえ、また別れたのか?」
「ん……? あ、……ああ……まぁ……そんな感じ」

 なんとなく、手を伸ばして指先で薬指の付け根を撫でる。高価な指輪は、指には馴染まず。それを指にした途端、吐き気すらこみ上げてきた。全身がそれを拒否していたようだった。

「何で女って、すぐ結婚したがるんだ?」
「俺に訊くな。俺は女じゃない」
「それはそうだけどさ…」

 芳文の左手の薬指には、指輪が光っていた。花に埋もれるようにして眠っていた香夏子の指にあるのと、同じもの。
 多分、芳文がそれを外すことはないんだろうと、そう思っていたけれど。
 指輪を外さない、いや、外せないであろう芳文。なのに指輪を外したくて仕方がなかった俺がいて。けれども俺たちは友達だった。正反対と言ってもいいほどの俺たちは、それでも同じときを過ごして、互いに大切な友達だった。これからも、そうであろうと思いたかったけれども。

 芳文と目を合わすことは愚か、芳文のことを話題にすることすら恐れている。

 視界の端で、雅史が呼び出しのボタンを押している。間をあけずやってきた店員はやっぱりアルバイトらしき若い娘だった。
 雅史の声がいくつかのつまみと、日本酒の名前を告げて、彼女がそれを繰り返して、最後ににっこりと営業スマイルを浮かべて下がった。

 過ぎていったものはもう戻りはしないということは、多分子供だってわかっている。後悔したって、同じ過ちを繰り返さないことには繋がっても、失ったものを返してはくれない。
 そもそも悔やむべきことがなければ、じゃあ、どうしたらいいんだろう。
 もっと会っていればよかった? 伝えそびれた言葉があった? そんなものは、何一つなく。ただ、ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、そういうものはまったくないのに。この先がないと思うから、涙が出てくる。
 昨日までにしそびれたことはないのに、今日ここに彼女はいなくて、明日もその先ももう、ずっと、いないんだと思うと、ただ涙が出た。

 悔やむべき昨日はない。けれども、明日もない。

 変化を恐れて、すがり付こうとしても、自分の手の届かない範囲で、平和な日常は解れだす。
 愛したはずのあの日々を構成していた、愛するべき人たちが一人また一人減っていって、そうして、必死で保っていたはずのそれは、いつの間にか波に飲まれて、もとの砂に戻っている。
 恐れていた変化は、自分が変わらないというそれだけでは防げようはずもなくて。

「潤一も飲むか?」
「もちろん」

 運ばれてきた日本酒を、ぐい飲みに注ぐ。
 透明で美しい液体は、人を悪魔にだって天使にだって、子供にだって、大人にだってする。

「雅史」

 ギリギリまで注いだその猪口を目の高さまで持ち上げると、雅史が顔をあげて、ああ、と納得したように瞬きをした。切れ長で涼しげな一重が、こちらの意を汲み取ったかのように、そして笑った。

「香夏子に」
「……香夏子に」

 カツ、と二つに陶器がぶつかって、僅かに一の蔵がテーブルの上に滴る。
 水のようにそれを仰ぐけれども、冷えた感触ではなく、熱が喉を下っていく。


2006/06/28
工藤