第十三話 / 選択制限


 蒸し暑い。
 何をするわけでもないのに、じんわりと全身が汗をかいていって、とくに関節の部分はどれも悲惨なことになっている。脇の下、折った腕のところ、膝の裏。何処もかしこも汗がにじみ出て、妙な気持ち悪さと変な温さがある。
 涼しいはずの浴衣も、形を整えるために胴に巻いたタオルが蒸して、やっぱりまた暑い。
 昔の人は一体どういう思いでこれを着ていたのか……補整の必要のないくらいの寸胴ばかりだったのだろうか。そんなバカな。中には絶対、それなりに胸もケツもあって、腰が引き締まってっていう体型の人だっていたはずだ。そういう人たちはどうしてたんだろう。暑いのを我慢して毎日着ていたのだろうか。

 目の前を行くタンキニだのチューブトップを着た集団を目で追いながら、西洋の文化とやらが圧勝した理由がわかった気がした。暑い上に着るのが面倒なんじゃ、そりゃあ特別な理由なしには誰も着なくなる。当然の結果のような気がした。
 帯と浴衣との間に挟んでいたうちわを背中からとって、かるく扇ぐけれども、ぬるい風が微かに届くだけで、あまり気持ちよくはない。
 エアコンを発明した人は偉大だ……発明してくれて有り難う。おかげで私みたいなグータラも生きていられるんだよ、きっと。

 手と手をつないで、体を寄せ合って歩くカップルが何組も目につく。
 あんなに誰かとひっついて、暑くないんだろうか。他人のことながら、握ったその手はきっと気持ち悪いんだろうなと思ってしまう。そういう状態になってしまったら、放したくても放しにくくて、微妙な雰囲気になったりしないのだろうか?
 まぁ、あれか、ラブラブで熱々のカップルにはそういう心配は野暮なのか。

 暑苦しい二人組みをいくつか見ていたら、こっちが暑くなってきてしまった。
 着崩れするとみっともないということはわかっていたけれども、襟元に指を一本突っ込んで、パタパタと扇いだ。
 大してありもしないのに、胸の間には汗がしっかりとあって。出かける前にしっかりと8×4をしてきたにも関わらず。何が「朝すれば一日中快適」だ。浴衣に着替える前にして、二時間後もう死にそうだよ。

 もう人の目とか、そういうものを一切かなぐり捨てて、胸元に向かってうちわを扇いでやろうかと思ったときだった、背中から、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。

「西沢さん?」
「……滝本くん」

 いつも通りの眼鏡に、いつもとは違う私服姿で、祭りとはまったく無縁といった雰囲気のクラスメートの滝本辰也が立っていた。Tシャツにジーパンという格好が酷く普通で、気持ち良さそうだった。
 手には黒い鞄と、コンビニの袋がぶら下げられていて、中には汗をかいたペットボトルが見えた。

「お久しぶりー、予備校?」
「久しぶり。そう。……そういう西沢さんは夏祭りのようだね」
「そうだよー。でもちょっと後悔中。もーマジ暑くてやってらんない」

 先ほど無理に風を送ろうとしたせいで、多分だらしなくなってしまった襟元を直しながら笑うと、ふーん、と興味なさそうに滝本くんが右手に持っていたアイスを一口口に含んだ。
 それが最後の一口になって、ちょうどよく隣にあったゴミ箱にアイスの棒は放り込まれた。

「デート?」
「そう、まぁそんなとこ」
「へー? 相手きいていい?」

 質問をしておきながら、なかなかどうして、興味がなさそうな口調。実際どうでもいいのだろう。
 不思議な奴だと常々思っていたけれども、滝本くんはやっぱり、まだ全然つかめない。いわゆる優等生にあたるタイプだと思うのだけれども、そんなに鼻についたようなところもなくて、普通に話せる相手なんだけれども。
 人のプライベートにずかずかと踏み込んでくるタイプでもないけれども、悪く言えば、色んなことに無関心らしい。どうでもいいといわんばかりの目だった。
 そうなのに、たかがクラスメートの夏祭りの遊び相手なんて、気になるのだろうか。

「年上」

 ヒュー、と口笛を吹く音がして、滝本くんは面白そうに笑っていた。
 そういう反応が普段教室で見ている滝本くんと結びつかなくて、似合わなくて、笑ってしまった。

「やるじゃん、西沢さん」
「いや、多分滝本くんの考えているのとは違うよ。年上は年上でも」
「藍」

 説明しようと思って、公園の端、外の遊歩道との仕切りに植えられた植木を乗り越えようとしたとき、後ろからデートの相手の声がかかった。

「あ、」
「すげー行列で飲み物一本買うのも大変だよ……、と」

 歩きながら左手で烏龍茶のペットボトルを差し出してきた。右手には自分の分らしいビールの缶がある。
 陽によく焼けた腕が、私と植木を挟んで向い側に立つ滝本くんを見つけて、とまった。

「オトモダチ?」
「そう。クラスメートの滝本くん」
「ども」

 滝本くんが軽く頭を下げる。
 祭りの騒音の中、ジメジメとした暑くて温い風が吹いて、いろんなものの混じったにおいを会場の方から運んできた。
 ドラマだったら、ここは彼氏が誤解して、ちょっと面白くなる場面なんだろうけれども、生憎そういうことは起こらない。そういう世界っていうのは、面白くするために脚色されて作られたものであって、現実は至ってリアルでしかない。当たり前だけど。

「デートのお相手のお兄ちゃん、西沢雅史」
「デート?」

 問い返したお兄ちゃんの言葉は無視して、宙で止まったままになっている左手からペットボトルを奪い去って、キャップをあけて、一気に流し込む。

「ね、考えてたのとは違うでしょ?」
「ああ……まぁ、うん」

 頷いた滝本くんは、何処か不思議そうに私たち兄弟を交互に見やってた。

「似てないだろ?」
「ええ、あまり」
「子供の頃は似てたんだけどな。年をとるにつれて、全然違くなってって。よく言われるんだ」

 悪趣味な提灯やもともとあった公園の街灯の半端な光でもよくわかるほど、お兄ちゃんは日焼けしている。
 もともと多趣味で、それがどれも基本的に外で活動するものばかりだったこともあって、基本的には年中真っ黒だった。よく、外国人に本当に日本人かと問われたりするんだけれども、そんなやりとりにももうすっかり慣れた。
 そんなお兄ちゃんとは比べ物にならないけれども(というか、お兄ちゃんが焼けすぎなのだが)、滝本くんも前に見たときよりは黒くなっているような気がした。

「滝本くん焼けたね」
「え? あー、うん」
「海にでも行った?」
「まさか。予備校までチャリ通いだから。不本意な焼け方だよ」

 そう言って自分で確認するように持ち上げた左腕は、思っていたよりもしっかりとしていて、太かった。

「おまえ、まだここにいるか?」
「うん、会場の中暑くて気持ち悪さ二割増しだから、もう少しここにいる」
「そっか。じゃあ俺、芳文のとこ行ってくるからな」
「先生によろしくねー」

 じゃあな、と一言残して雑踏に飲まれていった背中を見送ると、先生って? と、いつの間にか植木を乗り越えて隣に来ていた滝本くんが尋ねた。

「ああ、二年生の数学やってる森先生。知ってる?」
「わかるようなわからないような…何部?」
「バスケだったと思う。女バス」

 暫く記憶の糸を探るようにしていた滝本くんは、数秒そうしていて、漸く目的の引き出しを見つけたのか、ああ、あの人か、と頷いた。

「森先生とお兄ちゃん、大学時代からの友達なんだ」
「へえ。すごい偶然だな」
「ね」

 五メートルほど離れたところにあるベンチが空いたのを確認して、座る? と滝本くんが問うので、そうだね、と頷いて、結果として二人並んで祭りの会場に背を向けて座ることになった。

「森先生の奥さんて、先生?」
「へ? 何で? 違うよ」
「そうなんだ。てっきりそうだと思ってた。教師ってよく教師と結婚するから」
「奥さんは確か、OLだったはず。大学一緒で、大学時代から付き合ってて、でももう、五年くらい前に亡くなったよ」
「あれ、でも確か左手に……」
「うん、そうだね」

 汗の滲んだ自分の左手を見下ろしてみるけれども、そこには先生の左手にあるようなものなど、あろうはずもなくて。
 子供っぽい手には、自分でも不器用だと思うけれども、ピンク色のマニキュアが塗られていて、日焼け止めを徹底していなかったせいでちょっと日に焼けたただの手があった。
 左手の薬指。それだって、いつしかジーパンやスカートと一緒に西洋から流れ込んできたものでしかないのに、もう日本人の心の中に特別な意味をもったものとして棲み付いてしまっているから、不思議だ。
 浴衣は便利だとも思えなくて、動きやすくて涼しい洋服のほうが好きだけれども、その約束の印の意味と重みだけは、未だによくわからない。それこそ、そこだけまた締め付けられて、汗をかいて、水仕事をするとき邪魔になって仕方ないように思えた。

「何か、悲しいよね」
「何が?」
「だから森先生が」
「何で?」

 何を言っているのかわからない、と言う風に、滝本君が首を傾げる。

「だって、先生奥さんが死んでから、ずっと彼女なんて作ってないし……」

 私の説明をきいてから、首を傾げたその格好のまま、また逆に問い返された。

「西沢さんが悲しいって言ったのは、奥さんが死んじゃったことが? それともまだその思い出に生きてるってことが?」
「それは……、」

 食べる? と言って、コンビニの袋から差し出されたおにぎりを受け取って、のろのろとそれを口に運びながら考える。
 死んじゃったこと? それは、確かにそうだけれども。
 じゃあ、後者は? 悲しいこと?

「シーチキン嫌いか?」
「……オカカのが好き」

 色恋沙汰なんて、まったく無縁だと思っていたクラスメートの口から、何がどうして悲しいのかと問われて、答えられなかった。
 森芳文は随分と前から知ってきた人だったけれども、じゃあ、彼の心の中は、自分はどの程度把握しているのだろう。
 ただ、香夏子さんが亡くなったときいて、昔のように家に遊びに来てくれなくなったヨシ兄がいて、だから、ただ悲しいな、寂しいな、と、ただ単純に思っていた。

 関係のない言葉を交わしながら、ほとんど何の味もしないおにぎりを咀嚼する。飲み込んで、空になった口の中にはシーチキンとマヨネーズの微妙な味と、ご飯の粒が残っているような気がして、気持ちが悪い。半分以下になってしまった烏龍茶で流し込むけれども、マヨネーズの油がまだ残っているような気がする。

「滝本くんは? どう思うの?」
「俺は鮭が好きだ」
「おにぎりじゃなくて。森先生のこと」
「ああ、そっち」

 もごもごと動かしていた口をとめて、ごくん、と飲み込んで、私がそうしたようにペットボトルのお茶で飲み込んでから、彼はよくわかんない、と答えた。

「わかんないって、」
「だってそうだろ。俺先生と喋ったことないし。ただ、俺がもう五年も前に死んだ彼女の指輪をそのまましてたら、それがどうしてかって考える。外せないのか、外さないのか。選択肢がなかったのか、それを選択したのか」

 それによって、違うだろ? そう言っておにぎりの包まれていたビニールを丸めて、ビニール袋の中に突っ込んだ。

「自分で望んで外さないことを選んで、思い続けることを望んだなら、もしかしたら、幸せかもしれないな」

 それは我慢でも、苦痛に耐えることでもない。本人たちはそれを望んで行っているのだったら、これほど失礼な感想はないのかもしれない。
 忘れたくないのなら、忘れられない、指輪を外せない、可哀想な人というのは、まったく失礼な同情ではないだろうか。そう、言っているのか。
 不思議だった。まるでヨシ兄を知らない滝本くんが、何処かお兄ちゃんと同じような口調でものを言うから。

「やっぱりただの憶測だし、よくわかんないけどな」

 空になったペットボトルがキレイな曲線を描いて、いくつか並んだ屋台の後ろに設置されたゴミ箱に落ちた。

「人の気持ちなんて、ただ考えてみたって、意味ないよ、多分。どうしても知りたければ、尋ねることでしか正確な答えは得られないと俺は思うけどね」

 それなのに、他人を完全にシャットアウトするかのように言うから、やっぱり、滝本くんは普段教室で目にしていた通り、興味がないのだろうか。

「じゃ、俺帰るわ。西沢さんはまだいるんだろ?」
「うん…、滝本くん、最後にもう一つだけ」

 植木を飛び越え、その向こうに設置されていたゴミ箱に、おにぎりの包みの入った袋を投げ入れながら振り返った。

「滝本くんなら、はずす? はずさない?」

 街灯は背中になってしまっていたため、夏祭りの会場の悪趣味な提灯のオレンジ色に近い光が、滝本くんの苦笑するような顔をうつした。

「出来れば、俺の意志でいつか外したいね」

 じゃあ、また学校でな、とそう言って、彼は背中を向けて祭りの喧騒から遠ざかっていった。

「おにぎりご馳走様!」

 遠ざかる背中に投げかけるように声をかけると、少し離れた電灯の下、右手をひらひらと振る彼が見えた。


2006/06/29
工藤