第十五話 / ゆらゆら


 高校に上がってから一人暮らしを始めた。私がずっと前から入りたかった地元の高校に受かった直後、父親の転勤が決まったので、他の家族はついていったけれど、私だけはなんとか残らせてもらうことができたのだ。
 一人暮らしをしていると言うと、周りは「すごい」とか「うらやましい」とか「大変じゃない?」と言うけれど、実際のところ、慣れてしまえばそうでもなかった。大好きな本をいくらでも集めることができたし、私は独りで居ることにあまり寂しさを覚えないタイプだったから。
 けれども今年三年生になって、受験が色濃くなってくると、家事が少し辛くなった。放課後に塾に行って、遅くに帰ってくると、料理をする気もすっかり萎えてしまう。ついついレトルトとサプリメントに頼るようになってから、食費がだいぶ増えてしまった。すっかり主婦になってしまった金銭感覚に、この現実は少し辛い。

『だから一緒に住もうって言ってんのに』

 彼氏はそう言ってくれた。菊名先輩。私が1年生のとき3年生だったから、今ではもう大学2年生、地元の大学に通っている。この春にあった美術部のOBOG在校生の入り乱れた送迎会で再開して、それからすぐに告白されてつき合い始めた。
 今思えば成り行きだった。当時1年生だった私にとって、3年生の菊名先輩はあまりにも大人に見えたから。
 地元の高校に通っているにも関わらず、ごく個人的な理由で一人暮らしをしている菊名先輩は、夏休みに入る前から「一緒に住もう」とよく言った。確かに、二人で住めばその分の家賃も浮く。菊名先輩の住むアパートは高校へ歩いてでも通える距離だったし、二人で住める程度の大きさがあった。

『悠が卒業するまで絶対に手を出さない』

 そう宣言するほどには紳士的だった。実際、私が部屋に上がっても何一つしなかった。
 でも、私にはそれが重い。菊名先輩は真面目な人だ。数年後の約束を平気でする。私が卒業後、どこか遠い大学へ行くと言っても、きっと彼は当然のように遠距離恋愛をすると思っているだろう。そして結婚すると。当然のように。
 だから、私にはそれが重かった。私はそう思い込めるほど、まだ菊名先輩を好きになれなかった。

「贅沢者」
「そうかなぁ?」

 実紀ちゃんはだいたいいつもリアリストでシビアだ。会うのは夏祭り以来だというのに。

「だって菊名先輩でしょ? あの成績優秀で、優しくて気が効いて、将来商社かどっかに勤めて絶対に浮気しそうにない人」
「……あんまり否定できないけど」
「ゆーちゃんぼんやりしてるから、ああゆうしっかり者の人が絶対にいいって。ま、同棲となったらゆーちゃんトコの両親が許さないかもしれないけど」
「うん、それもあるの」

 おおらかな両親だけど、さすがに同棲ってのは許してもらえないと思う。もし許してもらえても、それは「結婚」へと結びつく大いなる一歩にしかならないだろう。
 嫌だというわけではないけれど。でも、私はまだ17歳で、この先に長い長い人生があった。今から全てを決めてしまうのがとても怖かった。
 実紀ちゃんにそれを伝えると、彼女は「分からないでもない」と言う。

「確かにもったいないって言えばもったいないかもね。菊名先輩と会うのがもうちょっと遅かったら絶対に捕まえるべきだったと思うけど」
「なんで?」
「結婚するんだったら、の理想形でしょ、あの人。彼氏にするには物足りないかもしれないけど」

 それに、と言いかけ、実紀ちゃんは淀んだ。

「ゆーちゃん、モテるって言えばそうだし、特にそうかな」
「……へ? それはないよ」
「ゆーちゃんの鈍さに撃沈していった男性諸氏を知ってるもんでね。少なくとも、現時点で心当たりが一人居るし」
「誰?」
「それを言ったら駄目でしょーよ」
「そっか」

 実紀ちゃんはときどき喋りづらそうにする。私がいつも「なんで?」とか「どうして?」と聞いてばかりいることもその一因かもしれない。そういうとき、私はいつもさくらちゃんのことを思い出した。1年生の頃、仲良く話す二人の姿を見ていたから。
 私は彼女の代わりにはなれないから、何かに苛まれることはない。たぶん。

「きっとゆーちゃんは、しっかり者系の硬派な男子に人気なんだと思うよ、統計上」
「統計って……」
「だから告られないで終わってるから気付かないんじゃない?」

 よく分からない。私の携帯のメモリーには、男の子の名前なんて5人もなかった。菊名先輩以外の人と事務以外で連絡をとったことは、ここ一年全くない。
 知られては駄目だ。それは絶対に駄目だ。

「いいじゃん、人気あるんだから。ちょっとは嬉しくない?」
「……あんまり」
「何で? あ、知らない内に見られてるのが嫌だとか?」
「そうじゃないけど……先輩が知ったら、ちょっと怖いから」

 付き合いはじめて一ヶ月も経たないうちに、その兆候が見えた。言葉の端々に見える裏の意味。
 彼は真面目な人だ。心配性で、面倒見がいい。
 いつか現れるかもしれない男の影に、先輩はいつだって怯えていた。そして私を警戒していた。

『悠は可愛いから、心配なんだよ』

 席を離れた後の鞄の中に、微妙な違和感を感じる。携帯をチェックしている姿を一度だけ見てしまった。

『おかえり』

 たぶん鞄を探った後でも、平然とした声色で、いつもの笑顔で迎えてくれた菊名先輩が怖かった。きっと彼に悪気はない。ただ不安で不安でたまらないのだろうと思う。
 ときどき書いていたブログを、受験勉強を理由にしてやめた。携帯に入れるスケジュールは最低限に。鞄の中をいつも整理しておく癖がついた。
 いつだっていつだっていつだって怖かった。でも言えなかった。

『好きだよ』

 その言葉には全然嘘なんてなくて、優しさに偽りはなかったから。入学したての頃、憧れたままの彼の姿は、確かにそこにあったから。
 未来の約束は、まだ出来ない。でも私も彼のことが好きだった。

 全部聞いた後、実紀ちゃんの顔が静かに凍った。
 私にはなんと言っていいのか分からない。

「……その、今まで菊名先輩は……あー、ちょっと待って、整理つかないや」

 白っぽい手でおでこを軽く叩きながら、実紀ちゃんは少し目を閉じた。実紀ちゃんも菊名先輩のことを知っている。ときどき吹奏楽部に遊びに来ていたから。
 それからそっと目を開けて、彼女は小さく「ごめん」と言った。

「なにが?」
「その……何にも知らないで、無神経なこといっぱい言って」
「ううん、気にしてないよ。話さなかった私も悪いし……」

 今までは静かに耐えることができた。でも、もうそろそろ限界なのかもしれない、と思ったから。話したのは、だから。

「でも、言ってくれたのは嬉しい。辛くなったら言うんだよ? もし別れたくなったら、菊名先輩にもちゃんと言うんだよ?」
「うん、その時はそうする」
「でも、ゆーちゃんは大事なことほど言わないから」

 そう言った実紀ちゃんの顔がどことなく寂しそうだった。

     *

 アパートに帰ったら、ドアの前に人影があることに気付いた。私のアパートの場所を知っている人は家族と、あとはたった一人しか居ない。
 私は肩にしっかりと鞄をかけ直して、小さな深呼吸をした。
 その人影は、私が階段の一段目に足をかけた瞬間、こちらに気付いた。

「久しぶり」

 二日ぶりのことを久しぶりと呼ぶかどうかは分からないけれど、私はぎこちなく笑顔をつくって「お久しぶりです」と言った。
 黒いジャケット、少し色落ちしたジーンズ、黒縁の眼鏡。柔かい笑顔を見ると、怖くなるのと同時に切なくて暖かくて愛おしい気持ちになる。

「入れてほしいって言ったらまずいかな?」
「あ……ちょっとだけ待ってもらえますか。少し片付けますから」
「いいよ」

 菊名先輩の視線の中で、私は鍵を開けて素早く部屋の中へ滑りこんだ。内鍵をかけようかどうか少し悩んだけれど、それはあまりにも失礼であるような気がしてやっぱりやめた。
 実はそんなに、部屋の中が汚れているわけじゃない。帰って、夕ご飯を食べて、お風呂に入って、勉強して、眠って、朝ご飯を食べて。ほとんどそれだけのためにこの部屋はあった。汚れる暇もないくらい、忙しくて忙しくて。
 目に付くものだけを仕舞いこんで、特にプライバシーに関するものはすごく奥へ入れた。
 大雑把な確認の後にドアを開けると、手すりにもたれかかりながら緑の多い住宅地を眺める先輩の後姿がすぐそこにあった。振り返った顔は優しい。

「待たせてごめんなさい」
「突然来たこっちも悪いから」

 部屋に入ってすぐ、先輩は近くのケーキ屋さんの箱を机の上に置いた。

「冷やしておかないとまずいかも。今日中に食べておいてよ」

 箱を開けると、ガトーショコラとクリームパイが一切れずつ入っていた。さっきまで実紀ちゃんとお茶をしてきたことを言えない。

「先輩も今食べますか?」
「ん? 別にどっちでもいいけど、悠が両方食べたかったらそうすればいいよ」
「じゃあ、一緒に食べましょう。紅茶淹れます。コーヒーはないんですけど……」
「うん、ありがとう」

 ひとつしかないガスコンロでお湯を沸かす。その間にカップを準備。別に紅茶好きというわけではないから、気休めみたいなティーバッグしかないけれど、それが私にとっての精一杯のおもてなしだ。
 青い炎がホーローのやかんを滑るのをじっと見つめていると、足音が近付いてきて私を抱きしめた。

「……先輩?」

 私という存在を確かめるように、菊名先輩はキスをする。たぶん、この数十日の間に私はだいぶキスが上手くなったんじゃないだろうか。
 絡まる舌に応えている間でも、思考は冷めている。
 別れる直前の、実紀ちゃんとの会話を思い出していたり。

『あのね、本当はこういうこと言ったら駄目だって分かってるんだけど、今のゆーちゃんが心配だから、一応教えておきたいの』
『? なにを?』
『さっき言ってた、ゆーちゃんを好きな男子のことなんだけどね、あれって阿部のことなの』

 朝練の後の濡れた真っ黒い髪。厳しい感じのする一重の目。彼は優しそうには見えづらいけれど、でも誰に対してでも公正な人なんだろうなと思った。
 
『じゃあな、浅倉』
『またね』

 ほんの少し胸が痛む。彼は私のことを助けてくれるかな。菊名先輩みたいに優しくしてくれて、菊名先輩みたいには束縛しないでいてくれるかな。
 そういった浅ましいことを考えた自分が嫌だった。でも舌を絡めていた。息は苦しくない。

 カタカタと、沸騰し始めたやかんの蓋が鳴る。火を止めなくちゃ。
 キスをしたまま、菊名先輩の手は的確にガスコンロのスイッチをとらえ、そのまま世界は静かになる。
 私は阿部君のことを思い出していた。


2006/10/15
飴村