第十六話 / 傷痕


 近所のスーパーの重そうな袋をぶら下げてやってきた康幸と二人、狭い1K+ロフトの俺のアパートで、惣菜や柿ピーを貪り食いながら飲んでいた。
 映画が見たい、と康幸がぼやいたので、大学の友達の一人が面白いから見ろといって数枚押し付けてきた映画のDVDの中の一枚をDVDプレイヤーに突っ込んで、リモコンの再生ボタンを押した。別に意味があったわけではないが、電気を消して暗くして見ていた。十五分もすると、部屋の隅のテレビの中で、ちゃちな恋愛映画はお約束の展開を繰り広げていた。

 惰性で柿ピーのピーナツを口に放り込みながら、ふと頭に浮かんだ話題を康幸にふってみた。

「そういやさおまえ、悠ちゃん? とはどうなの、最近」

 何ら意味のない質問。特別興味があったから尋ねたわけでもなんでもなくて、よくある話題のふり方だ。「そういえば」。
 ゴミ箱に捨てにいくのが面倒くさくなって、ビールの空き缶がテーブルの上から落ちて、足元に転がっている。足に当たった一つを蹴ると、康幸の目がそれを追っていった。

「……まぁ、相変わらず」
「……ふーん?」

 それ以上康幸が続けなければ、続かない話題。
 浅倉悠。確かフルネームはそんなんだったはず。二つ年下の、ぴちぴちの女子高生。そんなこと言ったらきっとどつかれるんだろうけれども。
 康幸の高校時代の後輩だときいていた。会ったことはないけれども、写真で顔は知っている。わりと可愛い子だった。派手さとは無縁な感じ。康幸が彼女と付き合っているのだと話したとき、なんとなくそうなった理由がわかった気がした。

 ふーんと、言って、視線をテレビの画面に戻しながら、目は画面を見ながらも、頭では何故か、くそ暑い夏休み前のある日のことを思い出していた。

『ごめんね、亮太。急に呼び出して……』

 梅雨の合間の眩しい太陽の下。暑い気温にも関わらず、連日雨ばかりだったせいで、使われていなかった外のベンチに腰掛けながら、別にいいよ、と俺は答えた。

『……こういうこと言うのって、ちょっとアレだっていうのはわかってるんだけど』

 渋谷真理子の声が、何処か言いにくそうに途切れた。
 いつもははきはきしている真理子だから、珍しいな、なんて思って。こいつにも、言い難いことなんてあるんだと、変なところで感心した。あとから考えてみると、そんなことに気をとられていたあのときに自分を殴ってやりたくなる。

『一緒にいて、楽しいって思えなかったんだもん』

 話しながら、どうしてこいつは俺にこんなことを話しているのだろうと思った。

 康幸と真理子が、同じ高校を出て、そして卒業式の後から付き合うようになったのだってきいていた。二人に出会ったのは同じ頃で。同じクラス同士、他の大人数も含め、仲良くなった。
 高校時代バスケ部だったという真理子は元気で活発なタイプの女で、美術部だったという康幸がどうしてこの女を選んだのか、しばらくは理解が出来なかった。けれども、二人はそれはそれで楽しそうだったし、一歩下がったところで、真理子を見守っている康幸は、俺の目から見てもちょっと凄いと思えた。十九やそこらで、そこまで寛容になれるんだと思うと。
 
『菊名はさ、』

 別れてから、真理子は康幸を苗字で呼ぶようになっていた。そうすることによって、自分と相手との間に距離をつくって、それで楽になるのかもしれない。

『……なんていうのかな……』
『……物足りなかった?』
『そう、それ。……優しかったけど……、なんて、いうのかな』

 そういって、同じ台詞を繰り返して、真理子は言葉を捜すように抹茶クリームフラペチーノを啜っていた。
 で、それを俺に言ってどうしたいの、おまえは。
 その問いを吐き出してしまわないように、俺もラテを口に運んだ。

『……嫌いじゃないのにね』

 口についたクリームを指で拭って、その指先を舐める仕草を見るともなしに見ていたが、指についたベトベト感が気に入らなかったのか、真理子はポーチから取り出したティッシュで指を拭った。

『……嫌いになったのかと思ってた』
『まさか』

 ハハ、と声を上げて真理子は笑ったけれども。困ったように眉尻は下がっていたけれども。

『……でも、』

 ズゾゾ、と場違いな間抜けが音が、もうラテが空になったことを報せてくれた。
 真理子の目が、何かを探すように緑色の抹茶フラペチーノの表面を見ていた。

『菊名は、嫌いになったと思うよ』

 その声が、本当に寂しそうだったから。
 さっきの言葉に嘘はないんだな、と何処かしみじみと感じていた。だったら尚のこと。どうして、終わらなきゃならなかったのかわからない。

 康幸と真理子が別れて半年以上経っていたのに、何でわざわざ真理子はあの日俺を呼び出したのだろう。
 呼び出された当初はわからなかったけれども、それから暫くして康幸の方から、彼女が出来たという話をきいて、なんとなく真理子の心が読めた気がした。

「……康幸はさ、」
「ん?」
「まだ、その……やってんの? ……勝手にケータイ失敬したり、とか」

 我ながら余計なお世話だと思ったけれども。酔いが回り始めているのを感じながらも、でも自分が酔って、からかいを目的でそんなことをきいているんじゃないということは解っていた。
 そして聞きながら、まったく違うことを考えている。

「……」

 沈黙は肯定。何となく、そうじゃないかなと予測しながら。でも敢えてきいてみたのは、単なる好奇心か。

「……そっか」

 自分の口から出た言葉の乾きに、自分でも驚いていた。

「……そっか……」

 そしてビールを口に運びながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
 何処かで、あの日の真理子のことを思い出していた。オレンジ色のマニキュアとか、ストローで少し取れてしまったピンクのグロスとか。露にした足の両膝とか。

「……なぁ、亮太」

 長い沈黙のあと、もう続かないだろうと思っていた話題を引きずったのは、康幸の方だった。

「俺、間違っているのかな」
「……気持ちはわからなくもないさ」

 吐いた言葉に嘘はないけれども、否定してやる気にはならなかった。
 康幸みたく独占欲の強い男に捕まった悠ちゃんを哀れにも思ったけれども、康幸がそうなった理由もわかっていたから。

 ずっと考えていた。
 真理子は康幸を嫌いではないと言い切ったのに。そして康幸は真理子を好きだったのに。一緒にいて、楽しいと思えなかったと、そういいながらも真理子は別れてからは悲しそうだった。
 嫌いじゃないと、そう言い切った真理子を思い出しながら、隣に座る男を見ていた。

「……ときどき、」
「うん?」
「怯えるみたく、こっちを見るんだ」

 康幸の目が画面に向けられていたけれども、映画なんて見てないだろう。
 他の男と一緒にいるところを見られたヒロインの「違うの!」という声がよく通って響く。男の方は聞く耳すら持たないで部屋を後にする。乱暴にドアが閉められる。話も展開も単純なのに、目が必死に画面を追っていた。カメラワークが上手いんだ、きっと。

 康幸の束縛する癖は、いつごろその兆候を見せただろうか。
 真理子の隣で、あんなにも優しく笑っていたのに。

 信じている、というたった一言が言えない。その言葉が与える重みを知りながら、それすらも出来ないほど、失うのを恐れている。
 心を籠に入れて、鍵をかけて。逃げられないようにすればいい。甘く呪いを囁いて、閉じ込めてしまえばいい。その言葉で、枷をかけてしまえばいいのに。
 そういう狡さがないくせに、いや、ないからか。失うのが怖いっていう感情ばかりが暴走して。

 沈黙をなんと受け取ったのかはわからなかったけれども、右手に持っていたビールをあけると、トイレ借りるな、と言って康幸は席を立った。
 ガチャ、とドアが閉まる音をきいて、ふう、とため息を一つついた。

「……上手くいかねーのな」

 ため息と一緒に、声まで漏れてしまった。

 鍵をかければ、枷をつければ、離れていくのを防げるわけじゃないのに。
 もっと上手く、愛せないのだろうか?
 真理子のことを考えればわからなくもなかったけれども、でも悠ちゃんは真理子じゃない。

 すれ違いと誤解を繰り返して、そうしなければ、ハッピーエンドにはたどり着けない安っぽい恋愛映画。どんなに酷い誤解でも、間違いでも、最後は必ずハッピーエンドだ。そういうシナリオだから。
 そんな風に寄り道を繰り返さなければ、この二人…いや、三人の関係も、幾度もそれを繰り返さなければ、進めないのだろうか。
 何の意味があるというのだろう。結局、俺たちのうち誰一人とも、あの別れから動けないでいる。
 けれども、ハッピーエンドでなかったら? 時間は過ぎても、先に進めなかったら? 意味などなかったら?
 苦しんで、涙して、けれどもそれだけなら?

 すれ違いと誤解を繰り返して、康幸と真理子は別れた。足りなかった言葉も、時間も、ほんの少しの歩み寄りも努力も思いやりも、補完してくれる都合のよい登場人物はいない。
 これは映画なんかじゃないから、主人公とヒロインと、両方の苦悩も葛藤も理由もを知っている観客はいない。代わりにいるのは、全部知っているそのうえで、それでもどうしたらいいのかわからない登場人物。苦悩も葛藤も全部知っているのに、シナリオは手元にない。出来るなら、これをハッピーエンドにもっていきたい。けど、それを決めるのは俺じゃなくて。

 テレビの画面の中でぼろぼろと涙を零す金色の髪の女優の声を聞きながら、また真理子を思い出していた。まるで弁解するように、でもまだ好きなんだと繰り返した。嫌いになったわけじゃない。それは本当。でももう駄目だったの、続かないと思ったの、苦しかったの。
 あれほど虚しく響く言葉もそうないだろうに。

「I loved him...」

 涙ながらにヒロインが言う。愛していたのに。
 ヒロインの隣で、ブルネットの髪の美人がヒロインの肩に手を置きながら諌めるように声言う。

「...Maybe, you two weren't ment to be...」

 ヒロインを宥めるために発せられた言葉はしかし、彼女の涙を止めるどころか悪化させる。

『――康幸じゃなかったのかもよ?』

 本当に、本当に。
 何てちゃちなんだろう。そんな一言で、康幸の痛みを、真理子の悲しみを、康幸の悩みを、悠ちゃんの苦しみを片付けないで欲しい。片付けられるはずなんてないんだ。そうやってここで泣いて、でも次の展開で幸せが約束されてりゃあ世話無ぇよ。
 そんな簡単なものじゃない。
 自分の言葉を思い出して、反吐が出そうだ。

 そうかもね、と無理に笑顔をつくった真理子が狭い画面の中に見えた気がした。
 あの別れで、どちらかは救われたんじゃないのかよ。どちらかは救われるんじゃないのかよ。何で真理子は泣きそうだったんだよ。何で康幸は痛みを引きずってるんだよ。

 だけど、と続いた字幕を見ながら、目を閉じた。

「But I still do...!」

 ヒロインの甲高い声が響く。
 ガチャ、と音がして、康幸がトイレから出てきた。ヒロインは泣き崩れていた。

「――あれ? つまんなかった?」

 目を閉じている俺を見てか、康幸の声がドアの方から聞こえてきた。
 場面が切り替わって、BGMも変わる。
 返事の代わりに、ゆっくりと目をあけて、康幸を振り返る。口の両側の筋肉に力を入れれば、笑みの形につくられるのを知っている。

「ちゃちな恋愛映画だよ。つまんねぇ。他の見よーぜ」

 リモコンのボタンを押せば、沈黙と暗闇だけが残った。


2006/11/08
工藤